破るべき「型」

「ふつうのおはしはぼくにはむずかしいよ。」
そんなことを言っていた4歳の息子。最近おはしを使えるようになった。指使いも美しく。なんなく食べ物をひょいひょいとつかむ。はしをもつ指の形も美しい。


幼い時から彼が使っていたのは「エジソンのお箸」
お箸の先にわっかがついていて、正しい持ち方が自然に身に付くというもの。
「ふつうのおはしはぼくにはむずかしいよ」
そんなことを言っていた息子だったが、知らず知らずのうちに指の形は整っていた。


「自分ではできない」
そう考えていたが、自分の中でその力が少しずつ少しずつ育っている。
そして、ある時、あるきっかけをもとにその力が流れ出す。


「型」とはそういうものなのだろう。
「型を身につけること」。それは成長への第一歩なのだ。
型が自分の中に当たり前のように落ちた時、型を離れてもその力は発揮される。


「個性を奪う」「自由がない」「息苦しい」
「型」を重んじるとそんな声が聞こえてくる。
しかし、そういう声を上げる人は「型」を「型」としてしか見ていない。


「型」のゴールは守り続けることではない。
「型」とは破られるためにある。
守って守って…ある日力みを抜いてなんなく繰り出された先に「型」の力があふれだす。


「守るために型がある」とイメージしている人。 「破るために型がある」とイメージしている人。 考え方一つで育つ子どもの質は変わってくる。


先日、ある人に言われた言葉。
「型通りにそんなに書けても無意味。大切なのは自分の書き方でそれを表現できることだ」と。
そんなこと百も承知だ。私のイメージしているゴールもそこにある。だからこそ「型」を大切にする。型の中にこそ自由がある。


息子はきっと「エジソンのおはし」の存在を忘れているだろう。
なぜ自分がここまで自在にはしを操れるようになったのか?
どういう日々を経てそれが自分の力になったのか?
彼は気にも留めず、今自然にお箸をつかいこなしている。
「型」の存在は消えるのだ。そしてそこからが本当の意味でのスタート。


「型」はいつか消えていく。
その時残るのは「型」ではなく「できる」と思える自身のみ。
「型」の先にあるものを見つめる。
だからこそ、「型」にこだわる。
「型」が自然にその子の中にストンと落ちるまで。

あきらめの中に生まれる成長

「あきらめること」は「明らかにみる」こと。
自分の置かれている状況、自分の向かうべき道を「はっきりと見据える」こと。
教育の真髄は子どもたちにいかに「あきらめさせる」かだ。

「あきらめられない(明らかに見れない」子は自分で決めたがる。
自分の好き嫌いで物事を選びたがる。

そこではない。
人はもっと大きいものに突き動かされながら毎日を積み重ねていく。
それを理解することが「あきらめる」ということ。

「あきらめ」とは決してネガティヴな言葉ではない。
むしろポジティブな言葉。

自分の置かれた状況、学ぶべきものを明らかに(はっきりと)見据え、前に進む力をくれる。
あきらめの中にこそ成長がある。

「抑圧」「強制」を食い破る

「自由」というものは単独で存在するものではない。
「不自由」がなくなった状態を「自由」とよんでいるだけ。
「不自由」な状況があるからこそ「自由」が生まれる。
「不自由」と「自由」は表裏一体。
お互いに存在を補完している。


「主体性」というものも同じなのではないか?
最近そのように感じている。
「主体性」というものも、単独では存在することはできない。
「抑圧」「強制」がなくなった時に生まれるもの、それを「主体性」とよんでいるだけなのではないか?


そう考えていくと「主体性」のみを追い求めることが不可能だということに気づく。
「主体性」とは「強制」「抑圧」を乗り越えた先に生まれるもの。
そうであるならば、教師は子どもたちの前に「壁」として存在しなければ「主体性」を生み出すことはできない。


「握る」ことができる教師だけが「放す」ことができる。
どんなに「主体性」をうたっても、「握る」ことができない教師は「放す」ことができない。
握りしめたその先に「主体性」を見出すことができているか?
「抑圧」「強制」を「主体性」につなげることができているか?

今年度、担任として子どもたちを本気で握っている。
しかし、子どもたちの成長の姿はすさまじい。
どんなに握っても、自分のイメージを超えた成長を見せてくる。
「強制」「抑圧」を食い破る人であれ。
常にそう願っている。

やりたくないなら、でていきなさい

「あなたたちを伸ばしたい」
教師のこの思いが子どもたちに伝わった時、学びは加速し始める。
どんなに拙い言葉でもいい。
本気でそれを伝え続けることで子どもたちの目は変わり始める。


言葉・態度・姿勢・実践…。
ありとあらゆる所から「伸ばす!」という思いを伝えていく。
それなしに子どもたちがついてくるということはありえない。


「子どもが好き」
な教師ではなく
「子どもを伸ばすのが好き」
な教師でありたい。


「子どもが好き」
な教師は子どもが自分の意に添わない行動をした時にこう言い放つ。
「出来ないなら出て行きなさい」
「やりたくないなら出て行ってもいい」と。


「あなたたちを伸ばしたい」
どんなにそのように伝え続けても、子どもたちは「出て行きなさい」の一言で矛盾に気づく。


「絶対伸ばす」と語っている教師自身が、子どもたちを成長の機会を放り投げているということに。


「出て行きなさい」
どんなに悪いことをしたとしてもこの言葉を教師が放ってはいけないのではないか?


教師が放つべき言葉。
それは
「出て行くことは許さない。これに向き合うことが成長させるために大切なこと。最後まで一緒にやろう。」
という言葉。


「子どもが好き」は「子どもが嫌い」にひっくり返る。「好き」か「嫌い」の二項対立。
しかし「子どもを成長させるのが好き」はひっくり返ることがない。
「未熟」な部分があるからこそ「成長」が生まれる。未熟な部分を含めてすべてが大切なものとしてつながっている。


「出て行きなさい」
「やらなくていい」


私もこの言葉を放ちたくなる時がある。
しかし、グッとこの言葉を飲み込む。
自分のゴールは「子どもたちを成長させること」
この言葉によって子どもたちはそのゴールに近づくか?自問する。


「やりぬきなさい」
「向き合いなさい」

…このように言えるのは教師だけ。
何がなんでも一緒にやるぞ。
この覚悟なしに子どもたちは伸びないから。


「子どもが好き」なのか?
「子どもを成長させるのが好き」なのか?


それを自問しただけ前へ進める。
それを自問しただけ何かが積み上がっていく。


自分は「子どもを成長させるのが好き」という教師でありたい。
自戒を込めて。

きれいごと

昨日から胸を揺さぶり続けている言葉がある。
それは
「きれいごと」
という言葉。


昨日ある方々と話をしていて話題となった言葉だ。
なぜこんなに自分の胸を揺さぶり、自分の足を止め、様々なことを考えさせるのか?


何度も何度も考えていて、その答えが見つかった。


そうだ。3年ほど前、この言葉とひたすら向き合っていた時期があったんだ。


http://manabitudukeru.g.hatena.ne.jp/furu-t/20120810/p1


「きれいごと」「建前」と言われているものに真っ向勝負をかける。


この言葉から始まるこの記事。
あの時、自分はこの「きれいごと」という言葉に嫌悪感を抱いていた。


「そんなことを言ったって、実際はそうはいかないよ」
「それは理想。どんなにきれいごとを並べても現実はそう甘くはない」
そんな言葉に「本当か?」と考え続けてきた。


子どもたちはかしこい。
教師が本気で語っているのか、建前で言葉を並べているのかを簡単に見抜く。
教師が自分の言葉を「きれいごと」と思った時点で、言葉は力を失う。
自分が語っていることを「きれいごと」ではなく、本気で信じるためにはどうすればいいのか?
それをずっと考えてきた。


「きれいごと」は「きれいごと」なんかじゃない。
本気で追い求めれば誰もが「きれいごと」と線を引き、あきらめるものの中に宿る真理に辿り着けるのではないか?
「きれいごと」をそのままで終わらせない。
「きれいごと」という言葉と本気で勝負をする。
あの頃の自分は本気でそう考えていたんだ。


「確信があるから語る」のではない。
「語っていくからこそ確信が生まれる」のだ。
確信なんてなかった。
でも泥臭く語り続けた。


あぁ。いつの間にか忘れかけていた。
あの頃の自分を。
今回の対話の中で理解した。
いつのまにか自分の中で「きれいごと」が「きれいごと」ではなくなっていたということに。
「確信をもって語る」
ことがいつのまにかできるようになっていたんだな。
ずいぶん登ってきたんだな。
そんなことを考えさせられた。


自分を振り返る大切な言葉はいつでも自分の外からやってくる。
自分の中で「あたりまえ」になって、目も向けずにいたものをそっと掘り起こしてくれる方々が近くにいること。
本当にありがたいなと思う。


今の自分は
「建前」「きれいごと」に真っ向勝負をしようとは思っていない。
「建前」「きれいごと」は形を変えるもの。
ある人の前ではそれは「きれいごと」になる。
しかし、違う人の前では「本気で追い求めようと思えるもの」となる。


時期、出来事、周囲の環境によってその言葉が「きれいごと」かどうかはクルクルと変わっていくものなのだ。
変わるのが当然。だからこそおもしろい。


「きれいごとを本気で語る」
一生に一人くらいそんな教師に出会ってもいいんじゃないかな?
自分ができることは
「本気で語ること」しかない。


過去の自分と対話するっておもしろい。
そのきっかけをいただけたことに感謝。

「強制」から「自主性」へ 「競争」から「協同」へ

「強制」よりも「自主性」
「競争」よりも「協同」


そう考えていた時期がありました。
でも最近は躊躇することなく「強制」もするし「競争」もさせます。
それは
「強制」と「自主性」
「競争」と「協同」
が相反するものではなく、つながりがあるものだと理解できるようになったおかげです。


課題を設定し、
「さあ、どうぞ」
という言葉一つで授業ができるというならば、教師としての役割はなんなのか?
そのへん歩いているおじさんを教室に連れてきて、「さあどうぞ」というのと何が違うのか?
教師であるあなたとそのおじさんの違いは何なのか?


4年前、私の授業を見てくださった芦田宏直さんに言われた言葉です。
あの頃の私は
「強制」<「自主性」
「競争」<「協同」
という考えに傾いていました。
そこから考え始めたこと。
それが
「教師にしかできないこと」
ということです。


坂内さんがずっと前におっしゃっていたこと。
それは
「教師にしかできないこと。それは本気で『勉強をしろ!』ということ」
この言葉は私の中でストンと落ちました。



「好きにしていいよ」
なんて学校に存在しないのです。
価値を語り、道を示し、共に歩み、最後に彼らに道をたくす。
その過程をふまずに「好きにしていい」ということは存在しない。


教師とは良くも悪くも「強制」し「競争」させる宿命にあるのだと思います。


しかし、大切なのはそれらを「強制」「競争」で終わらせないということ。
「強制」を「自主性」につなげ、
「競争」の中から「協同」を生み出していく。
その覚悟が大切なのでしょう。


今まで漠然としていたこの考えをはっきりと形に示してくれたのは高橋尚幸さんです。
多分彼は無意識だと思いますが。
彼は「強制」を「自主性」へと高めていく術を知っています。
自分が迷った時、困った時、ゆるぎなくそれを目指している人がそばにいること。
本当にありがたいなと感じます。


「強制」←→「自主性」
「競争」←→「協同」
これらはどちらかが大切なのではない。
大切のはこれらを往復しながら一歩ずつ上へと成長していくこと。


今年の子どもたちと過ごした4月。
たくさんのことを考えさせられました。

視点を引きはがす

新年度。 まず担任として自分がやることは何か? それは子どもたちの固定観念を引きはがすこと。
「自分はこれが苦手だ」
「今まではこうだった」
「あいつはああいうやつだ」
「自分はこんなもんだ」…。
子どもたちの心に根を張った固定観念を引きはがす。
そこがスタート地点。


「できる」「できない」
「頭がいい」「わるい」
「成功」「失敗」
「いい子」「悪い子」
これを定めることに何の価値もない。
大切なのは今の地点から一歩でも踏み出そうとしているか?
そこを何度も問う。



勉強ができても、そこでおごりたかぶっていてはだめ。
勉強ができないからといって、そこであきらめ、投げ出していてもだめ。
大切なのは今の自分の状況から一歩でも前に進もうとしているか?
「できる」「できない」なんて関係ない。



「今までの自分は…」
というように、内部に向けていた視線をぐっとねじまげる。
「これからの自分」
「前進している自分」
「成長している自分」
に焦点を合わせることの大切さを何度も何度も語る。

「できた」「できなかった」
行動によって起きた「結果」には何の意味もない。
大切なのはその「結果」にどのように「解釈」を加えるか。
どんな出来事も「前に向かうきっかけをくれた」というように前向きに解釈ができるようにしていく。
それが4月に自分が全力でしていること。