「抑圧」「強制」を食い破る

「自由」というものは単独で存在するものではない。
「不自由」がなくなった状態を「自由」とよんでいるだけ。
「不自由」な状況があるからこそ「自由」が生まれる。
「不自由」と「自由」は表裏一体。
お互いに存在を補完している。


「主体性」というものも同じなのではないか?
最近そのように感じている。
「主体性」というものも、単独では存在することはできない。
「抑圧」「強制」がなくなった時に生まれるもの、それを「主体性」とよんでいるだけなのではないか?


そう考えていくと「主体性」のみを追い求めることが不可能だということに気づく。
「主体性」とは「強制」「抑圧」を乗り越えた先に生まれるもの。
そうであるならば、教師は子どもたちの前に「壁」として存在しなければ「主体性」を生み出すことはできない。


「握る」ことができる教師だけが「放す」ことができる。
どんなに「主体性」をうたっても、「握る」ことができない教師は「放す」ことができない。
握りしめたその先に「主体性」を見出すことができているか?
「抑圧」「強制」を「主体性」につなげることができているか?

今年度、担任として子どもたちを本気で握っている。
しかし、子どもたちの成長の姿はすさまじい。
どんなに握っても、自分のイメージを超えた成長を見せてくる。
「強制」「抑圧」を食い破る人であれ。
常にそう願っている。