学び合いフォーラムでの学び

「学び合い」の成立条件って何?

それはね「在り方」だよ。
それはね「その人」だよ。
それはね「信念」だよ。
それはね「魂」だよ…。
「そんな抽象的なことばっかりいってないでもっとしっかりと言語化しなさい!」

っということで決まった今回の学び合いフォーラム分科会のテーマ。

いやはや。打ち合わせなし。台本なし。まったくのノープランで始まった今回の分科会。
すごくすごくすごく深い学びとなった。
「参加した人もじっくり問いに向き合える環境をつくりたいよね。」
そんな話から分科会会場を急遽変更。
変更した先はなんと廊下(笑

20脚ほど椅子を並べて、会場準備完了。
みゆき会の三人は立ちながら対談。

やはり場をつくるってすごく大切。
参加者の方々との距離が近くなる。
こっちの戸惑いも、あちらの共感も共有できる。

急な会場変更にも笑顔で対応してくれたお二方に本当に感謝。
こういう支えがあってつくった学びの場。
なんか嬉しくなった。

今回の学び。
それは
「自分の中でまだまだ繋がっていない所がたくさんある」ということに気づけたこと。
淀みなく伝えられる部分と「うっ…」とつまる部分があるということに対話を通して気づく。

それは坂内さんの鋭い質問のおかげ。
脳みそをえぐるような質問が矢継ぎ早に飛んでくる。

学び合いを崩すことなく持続させていくには?今回の対話でうかびあがってきたこと。
それは

?人生レベルで進むべき道をスパッと指し示せるか?
教師自身が進む道も含めてまっすぐに線を引く。
これは学び続ける教師にしかできないことだろう。

?語っている内容と、自分が実際にしている行動の「差」を縮めていこうとしているか?
なおたかさんは振り返りの中でそれを「往還」の中で埋めていくしかない。
と書いていた。まったくその通りだ。

そして一番大切なこと。
それは「結局その人でしかない」ということ。
大切なことはどこにも書いていない。その人の中にあるものこそが答えであるということ。

「往還」するから持続するわけではない。
素敵な語りをするから持続するわけではない。
ぶれないから持続するわけではない。
そうあろうとするその「人」が子どもたちの中に映り込んでいく。

一回りしてまた同じ答えに辿り着く。
しかし、わからないから抽象的な言葉でごまかしていた時より少し深まった感覚を覚える。
こういう感覚は久しぶりだ。
世界がまた少し広がる。
「大人になる」ってこういうこと。

今井さんにお誘いいただいた学び合いフォーラム。
おかげでいろいろなことが繋がり、とけあい始めた。
ぐっと握りしめていたものを少し手放せるかもしれない。
参加して学び合いの武器である「多様性」が固まってきている印象をうけた。

しかし、気をつけなければいけないことがある。
それは「光の裏には必ず影が生まれること」
そしてその光が濃くなればなるほど、影もまた濃くなっていくこと。

確かに広がり深まり始めている。
しかし、その裏には必ず、崩れ、苦しむ人が生まれてくる。
そこまで見据え、その先の展開もイメージしながら進んでいけるか?
時代の流れに埋没しないためにはその姿勢が必要不可欠だろう。

自分たちに何ができるのか?
それをしっかりと考えながら歩み続けていきたい。
強く感じさせられたフォーラムだった。

本日得たこと。

実践を発表する場をいただいた。
こういう場で一番学びをもらえるのは自分自身。強くそう感じた。
課題もたくさん見つかったが、得られたものはそれ以上だった。

伝えても伝えきれないことがある。
何を伝え、何を削ぎ落とすか?
思考を再度「整理」する必要があると強く実感。

今日一番の学び。それは生活科、総合学習の変遷を学ぶ中で見た一枚の写真。その写真には大正時代の学級の様子がうつっていた。
唖然とした。
自分のイメージしていた授業と全然違うものだった。

立って話し合っている子もいる。黒板に考えを書いている子もいる。先生に相談している子もいる。一人で学びに向き合っている子もいる。
まさに多様な学びを共有できる教室がそこに映っていた。

教科の枠なんてない。すべての教科をつなげ、生き生きと学び続ける子どもを育てたい。
そんな想いに燃える先人の息遣いを確かに感じた。

「あぁ。自分が目指す道を志した先人が確かにいたんだ」
グッときた。
涙が出そうになった。
まだまだ先に進み続けていける。
そう実感させられる一枚だった。

もう一つ得たこと。
それは自分の追い求めたいと思える人間像のイメージが形になってきたこと。

芯の強さを持ちながらも、柔らかく、温かく進み続ける。
自分が惹かれる人はそういう人。

自分の見ている世界はまだまだ狭い。まだまだ浅い。
もっと高く、もっと広く、深く。
そんなことを再確認できた一日だった。

引き続き明日も貴重な学びの場。
次につながる何かを掘り起こしてきたいと思う。

公教育とは?

「公教育」って何?
最近心に湧き上がる大きな疑問。
どこにいっても同じなんてあるわけない。
なのに「公教育」という言葉は異質なものを排除するのに振りかざされるんだな。

「公教育」以外の選択を認めず異質なものを排除し続ける。
その先にあるものは?

「公教育」なんていう形のないもやもやとした概念が大きな力を握っている。
震災時に強く感じたけどそれは今なお同じ。

一人一人、一つ一つが違うはずなのにそれを「公教育」という括りで一つにしてあたかも同じだというように見ている。

自分たちを縛り続けるのは形のはっきりしない概念。
それってどう打ち破るのだろう?

様々な人が様々なアプローチで「公教育」という概念を打ち破ろうとしている。
その小さなうねりの一つになれればいいな。
そんなことを思い始めている。

すべてが一本に

今日は一日教員免許更新講習。一日中席に座り、ひたすら講義を聴く。
いつもは教える立場。今日は逆に教わる立場。
教わる立場になるといろいとなことが見えてくる。
子どもたちが何を思い、感じながら授業を受けているのかが浮かび上がってくる。


講義を聴きながらいろいろなことを考える。普段はこんな風に落ち着いて思考する時間はほとんどない。日々、目の前のことに追われ、気づくと一日が終わっている。自分の実践、これから歩む道のりを考えるよい機会だった。


「誰かに発表してもらおうかな?」
教授が言う。
他の参加者の方が指名される。
その参加者の方の意見を聴く。
しかし、その意見は自分の頭の中を通り過ぎていく。


そのときに感じた疑問。
「人の意見を自分ごととして捉えるためにはどうすればいいんだろう。」


せっかくの全体交流。
人の意見を聴く絶好の機会なのに、自分が指名されなかったとたん、安堵を覚えいつの間にか他人ごととなる。
そんな経験は誰しもあるはずだ。


「学びの主人公」となった分だけ人は成長する。いかに「自分ごと」として物事を捉える場面を確保するか?それは子どもたちを成長させる上で大きな課題となってくる。


学び合いの場面では活発に意見交流がなされ、参加者が「学びの主人公」とbなっていた。しかし、誰かが指名されて、その意見を聴く場になったとたん「他人ごと」となり学びが停滞してしまう。そんな場面はないだろうか?
自分の中ではこれがずっと課題となっていた。


しかし、今回の講義を受けたことでそれを解消する方法にふと気づく。
なぜ「他人ごと」となるのか?
それは聞いていても聞いていなくてもわからないから。
「聴く」ということを評価することができないから。
それを明確に評価できるようにすればいい。ただそれだけ。


一気につながる。
これで2学期の授業は大きく変わることになる。
すべての場面で子どもたちを育て抜くことができる。
すべてが一つの線につながった。


一斉授業。
学び合い。
ホワイトボードミーティング。
ファシリテーショングラフィック。
そしてインタラクティブカリキュラム。
それらをすべて一つに「融合」することが可能かもしれない。
道筋は見えた。あとは辿るだけ。

まずは「遠くにある目的」

夏休みに初任者の方にお話をする機会をいただいた。
うれしい反面、責任重大。
まだまだ未熟な自分が若い先生方に伝えられることって何なんだろう?
そんなことを考え始める。

若い教師が成長していくために必要不可欠なことは何か?
そう問われたらどう答えるかな?

いろいろ考えたけどやっぱり答えは
「目的を意識すること」なんだと思う。

自分は何を目指して日々教壇に立ち続けているのか?
それがしっかりと見えているかどうかで、選択する言葉、行動は変わってくるんじゃないかな?

自分の初任の頃を思い出す。
正直、毎日目の前のことばかりに追われていて、「目的」に目を向ける余裕なんてなかった。
いつの間にか「日々をこなすこと」が「目的」になっていたような気がする。

自分が大きく成長できたのは、坂内さんや高橋さんと「目的」を語り合うようになってから。
見える、見えないを抜きにして、自分が向かう先に何があるのかを意識するようになってから、少しずつ自分の在り方が定まり始めたように思える。

「目標」を辿って、辿って、辿って、奥の奥にある「目的」。
見えるか見えないかは別にして、そこに目を向けようと意識するか否かが大切なんだろう。

悩みを相談し合う場も大切。
でも、もっと大切なのは自分がどこに向かっていきたいのかを共有し合う場、なのかもしれない。
そんな場を提供できたらいいな。

違和感の正体

なんか違うな。
何かな?この違和感。
最近感じていた違和感の原因が明らかになった。


最近感じていた違和感の原因。
それは2つ。


?全体ではなく、部分に目を向けていたこと。
?話す(放つ)ことばかりで語る(形づくる)ことができていなかったこと。


この2つがいつのまにか大きな違和感になっていた。
「感覚」というのはいつの間にかするりと逃げていくからやっかいだよな。
でも、短期間に気づき修正できるようになってきていることには成長を感じる。
結局この繰り返しの中で前に進むしかないんだな。

「できない」から「やらない」? 「やらない」から「できない」?

「できない」から「やらない」のか?
「やらない」から「できない」のか?


金曜日教育人間塾に参加して、頭にぐるぐると回ったこと。


「子どもに寄り添う」
「カウンセリングマインドをもって…」
これは確かに口にも耳にも優しい言葉だよね。
確かに教育の根幹を語るとすると、本質をついた言葉なんだと思う。


でも。「寄り添う」という言葉一つとっても、とっても深いものなんじゃないかな?


常に温かく、受け入れ続けて「寄り添う」方法もある。
厳しく叱り、励ましながらも絶対に投げない、そんな「寄り添う」だってある。


でも「寄り添う」って言葉を聞くと、みんな「優しく」「温かく」という方向に引きずり込まれてしまうんじゃないかな?
芯がないと知らず知らずのうちに「寄り添う」は「甘やかす」に形を変えてしまう。


教師の仕事ってシンプルだと思う。
一つ目は、学ぶことの価値を語り、「やってみろ」ということ
二つ目は、できていることを認め、励ますこと
三つ目は、出来ていない所、甘い所をしっかりと指摘してあげること


二つ目ばっかりにフォーカスすると「信頼関係」は「馴れ合いの関係」になっていく。
学びから逃避した子の大半は「できない」と「やらない」が混じり合っている。
でも、そこであえてその入り口に目を向けることが必要なんじゃないかな?


「できない」子に対して、「やれ」と言い続けるだけでもだめ。
「やらない」子に対して、「わかるわかる。」なんて寄り添い続けるだけでもだめ。
それをすべて見据えた上で生まれる「支援」ってなんだろう。
そんなことを考えている。