「できない」から「やらない」? 「やらない」から「できない」?

「できない」から「やらない」のか?
「やらない」から「できない」のか?


金曜日教育人間塾に参加して、頭にぐるぐると回ったこと。


「子どもに寄り添う」
「カウンセリングマインドをもって…」
これは確かに口にも耳にも優しい言葉だよね。
確かに教育の根幹を語るとすると、本質をついた言葉なんだと思う。


でも。「寄り添う」という言葉一つとっても、とっても深いものなんじゃないかな?


常に温かく、受け入れ続けて「寄り添う」方法もある。
厳しく叱り、励ましながらも絶対に投げない、そんな「寄り添う」だってある。


でも「寄り添う」って言葉を聞くと、みんな「優しく」「温かく」という方向に引きずり込まれてしまうんじゃないかな?
芯がないと知らず知らずのうちに「寄り添う」は「甘やかす」に形を変えてしまう。


教師の仕事ってシンプルだと思う。
一つ目は、学ぶことの価値を語り、「やってみろ」ということ
二つ目は、できていることを認め、励ますこと
三つ目は、出来ていない所、甘い所をしっかりと指摘してあげること


二つ目ばっかりにフォーカスすると「信頼関係」は「馴れ合いの関係」になっていく。
学びから逃避した子の大半は「できない」と「やらない」が混じり合っている。
でも、そこであえてその入り口に目を向けることが必要なんじゃないかな?


「できない」子に対して、「やれ」と言い続けるだけでもだめ。
「やらない」子に対して、「わかるわかる。」なんて寄り添い続けるだけでもだめ。
それをすべて見据えた上で生まれる「支援」ってなんだろう。
そんなことを考えている。