教育とは…

誤解がある表現かもしれませんが。
教育とは洗脳です。
教師という一人の人間の考えを価値付け子どもたちに語るのですから。
だからこそ子どもたちの前に立つ限り自分自身の言葉に責任をもちたい。そう考えています。
子どもたちは教師の言葉だけではなく、背中を見て様々なことを学びます。


若い頃はそのプレッシャーに押しつぶされそうになったものです。
しかし現在はその状況から抜け出しました。
子どもたちを洗脳するという宿命から抜け出すことができない職業が教師というならば、少しでも子どもたちの心が軽くなるような考え方を刻みたい。
常にそう考えるようになりました。


・心を開くこと
・失敗の価値
・スタートを切り直せることの大切さ
・自分自身を好きになることの大切さ


自分という存在が目の前から消えても子どもたちの心を支えていく価値を刻みたい。
そして語ることを通して自分自身の心にも刻みたい。


新年度。自分という色が一番色濃くでる時期です。
そんな中だからこそ、ふとした瞬間、こういうことに気づけるなぁと感じます。

成長の可視化

「◯◯のために◯◯が必要なんだ」
数年前まで自分はこんな言葉を振りかざし続けていたと思う。
しかし最近はこういう言葉をあまる使わなくなったように感じる。
わざわざ力を入れずに語らなくても、伝えることができるようになってきたのかもしれない。

「◯◯のために◯◯が大切」
この言葉は物事のスタートラインとしては大切だろう。
しかし、時間の経過にしたがって子どもたちが「やっぱりその通りだな」と納得できるか、「う〜ん。本当に大切なのかな?」と半信半疑になるかで結果はちがってくる。

「やっぱりその通りだな」
人がそのようい感じるために必要なもの。それは「成長を感じる機会」だ。それが多ければ多いほど、子どもたちの心にそれをやることの大切さがストンと落ちてくる。

自分が少しずつ成長していること。
その成長が積み重なり、成長し続けていること。
それを実感することが出来た時、人は自分も、それを支えてくれた相手も肯定できるようになるのだ。自己肯定感というものは始めから目に見えるものではない。目に見えるようになるから肯定できるようになるのだ。

「自分はここまで伸びた」
「これのおかげでこれができるようになった」
「自分の強みはこれだ」

このように子どもたちが自分自身の成長を肯定的見つめられるようになること。
これができれば力を入れて語らずとも子どもたちはぐんぐん伸びていく。

大切なのは「何をやるか」ではなく「何を感じさせるか」 1年の終わり、小学校の終わり、人生の終わり…。 節目節目において、歩んできた道を肯定的に見つめられる人間を育てたい。 そんな人を育てたいから、自分がそんな人間になる。

しばしお別れ

札幌に来て3年。
いよいよ今の学校に別れを告げる時がきました。

すてきな子どもたち、保護者のみなさん、同僚に支えられた3年間だったなぁ。
担任した子どもたちはどの学級の子もすてきでした。

まっすぐで一生懸命。
優しくて、芯がある。

この3年間、迷いながら、いろいろなことを積み重ねてきたけれど、その一つ一つが財産だなと感じます。
最後に子どもたちに話したこと。
それは「かしこい」とはどういうことか?
ということ。

彼らならきっと大丈夫だろう。
安心して笑顔で別れを告げることができた最終日でした。
支えてくださった皆様、ありがとうございました。
次の職場でも「志」をもって楽しみたいと思います(^^)


今年担任した子どもたちも私にたくさん学びをくれました。
言語化して心にとどめるためのメモ。
〈今年度の学び(メモ)〉
・自主学習とは?〜握るから放すへ〜
・「ごめんね」「いいよ」からの脱却。〜対話する場面の積み重ねを〜
・大人になるとは?〜自分との距離を広げていく〜
・かしこさとは何か?〜かしこさを支える三つの条件とその融合〜
インタラクティブのその先とは?〜合わせてやるのではなく、もう一度やる〜
・強権発動することの価値〜放すために握る〜
長い間もやもやしていたものがスッとつながった一年だった。
まだまだ先へ。

再会 「知識」から「知恵」へ

札幌に来たのは3年前。
その年私は6年生担任だった。
卒業する彼らと共に札幌という新天地へ来た3年前。
その時の卒業生も高校受験を経て、いよいよ高校生へ。彼らが一歩一歩大人へと近づいていく姿を見ていて、うれしくなる。


昨日はその時の卒業生が札幌へやってきた。
青春18切符を握り、男二人旅。
自分が15歳の時にこんな行動力はなかった。
「後世畏るべし」というがまさにその通り。
久しぶりに再開した彼らはあの頃より一回りも二回りも頼もしく見えた。


「知識」は行動することで「知恵」へと変わる。
彼らと再会し、対話をしていて感じた言葉。
彼らは今まで学んできたことを今精一杯「知恵」へと変えようとしている。
自分の心の中に湧き上がる感覚をただただ信じて。


大切なことは学校では教えてはくれない。
その通りだ。
本当に大切なことは教わったことをもとに「行動」を重ねていくことでしか身に付かないのだから。
3年前、彼らに熱く熱く語っていたことを今度は彼らの行動を通して私が学んだ気がする。


頭で考えることも大切。
しかしそれは「知識」にしかならない。
それを「知恵」へと広げ・高め・深めていくためには、ただただ「行動」を重ねていくしかない。


彼らと共に過ごせた2年間を誇りに思う。
そして、彼らが築くであろうこれからの時代に希望を感じる。
自分にできることは、彼らと同じ方向を見て歩んでいける人間を育てていくこと。
そしてその中で私も一緒に学ばせてもらうこと。


次に会うのはいつになるのか?
その時まで私は私で「知識」から「知恵」への階段を上っていこう。
そんな決意をくれたすてきな再会だった。

「自分」と「世界」との距離を広げていく

自分と世界の距離を広げていくこと。
これが「成長する」ということなのだと感じている。

幼い子どもたちは「自分」と「世界」の距離が短い。
「自分」=「世界」なのだ。
「自分」がいやならばいや。
大切なのは「自分がどう思うか?」なのだ。
自分の中に自分がはりついている状態。
だから世界を「自分の目」「自分の感じ方」を通じてしか見ることができないのだ。

確かに「自分」のものの見方、感じ方を大切にするということは大切だ。
しかし、それは複数の視点をもった上での話。
多角的に物事を捉える目をもった上で、あえて自分のものの見方、感じ方を大切にするということは確かに意味がある。


しかし、「自分」という視点でしか物事を見られない人がいくら自分のものの見方、考え方を大切にすると語っても、それは「自己中心的」なものの見方にしかならない。


「自分のものの見方、考え方を大切にする」ということを最終的に考えさせたい。
しかし、幼い子どもたちにそれを語ってもまったく意味がない。
なぜなら彼らは常に「自分のものの見方・考え方」を大切にしているから。大切にするというより、むしろそこから身動きせずにいるから。


そのように考えていくと、幼い子どもたちのために自分ができることが見えてくる。
私たちがすべきことは彼らの心にへばりついている「自分」を引きはがしていくこと。
「自分」というものに立ち戻らせるために、あえて自分以外の視点を語るのだ。

「自分」と「世界」の距離を広げる。
ここ数年子どもたちに語り続けてきて、その距離の取り方には3つの種類があると考える。
その3つとは


?心理的距離
?空間的距離
?時間的距離
である。


?心理的距離
これは「相手」と「自分」の感じ方がちがうということだ。
相手を傷つけることを平気で行った。しかし、相手の立場でものを考えていくとこれはすごくいやなことなのではないか? そのように考えられる状況をつくっていくこと。

「自分は楽しいからやってもいい」 このように「自分の楽しさ」にはりついている心をひきはがし、相手の立場から自分の行動を見る。 これによって子どもたちは「身近な誰かの視点」を通じて「自己」を見ていくことになるのだ。


?空間的距離
さきほどの心理的距離は身近な相手への他者意識をもつことだった。しかし、それを身近ではない相手。会ったこともない相手へと広げていくことが「成長すること」なのだと感じる。

大好きな人→クラス→学年→学校→地域→日本→世界→…

というように自分のつながりの範疇を超えてもなお、相手の立場から物事をとらえ、感じられるようになること。その距離が大きければ大きいほど多角的に物事を捉えることができるのだ。


?時間的距離
子どもたちは常に「今」を生きている。「今」ということを最大限に楽しみ、精一杯生きる。これを一旦引きはがし、未来や過去に目を向ける。
「過去の自分」から見た「今の自分」
「未来の自分」から見た「今の自分」

「ゴール思考」というのもこれに分類されるのかもしれない。

「今が楽しければいい」
ではなく
「どこに向かっていきたいのか?」
「何のためにやるのか?」
ということをひたすら考えさせる。
「今の自分」と言うものを飛び越えて、はるか遠くに存在する自分自身から「今の自分」を見つめるのだ。



私たち教師がすべきこと。
それは「子どもたち自身」と「世界」との距離をひたすら広げていくこと。
そして、広げ、広げ、広げ抜いた先に再度「自分の周りの世界」の大切さに立ち戻らせること。


ここ数年自分の存在理由を見失いかけていた。
生まれながらにして「自由」なこどもたちに自分は何を伝えられるのか?
自分の言葉によって子どもたちの「自由」を縛り付けることにならないか?と。

しかし、その迷いからようやく抜け出した。
引きはがし、距離をとった先に見えるものこそが真の「成長」なのだ。
これにはっきりと気づけたのはここ最近の話。
それがわかったことで言葉にブレがなくなった。

求めていいのだ。
温かく、しなやかにもっともっとと。
子どもたちの前に「壁」として立ちはだかっていいのだ。
「自分」と「世界」を引きはがしていく。
次年度すべきことが見えてきた。

告げ口

坂内さんの記事を受けて自分なりに考えたこと。


「先生。◯◯くんがね…」
このように人のやっていることをいちいち教師に告げ口にくる子はどのクラスにもいるものだ。
このような子が来たとき、それを「チャンス」と捉えられるか否かで、クラスの成長度は変わってくる。

「先生。◯◯くんがね…」
このような言葉を聞くと、教師は暗い気分になる。
「またか…」
そして、イライラを隠せずに指導にあたる。
すると知らず知らずのうちに言葉はきつくなり、伝えたいことは一ミリも伝わらない。

まず大切になってくるのは、なぜその子は告げ口をすることが日常になっているのか?ということだ。それを冷静に考えていくと、教師がどんな言葉をかけ、何をすべきかが見えてくる。

告げ口をすることが日常化する理由は2つある。
一つ目は、その子自身が対話をすることが苦手としていることだ。相手が自分の意に添わないことをして来た時、冷静に受け止め、何がいやなのかをきちんと伝えることができない。だから教師に告げ口するという方法で、自分の思いを伝えようとする。

二つ目は、力のある者の力を借りて自分の考えを通す経験をたくさん積んでいるということ。
「大人(親や教師)に言えば自分の思い通りに物事が運ぶ」という経験がしみついていて、そこから抜け出せないのだ。

問題に直面した時、「自分でなんとかする」のではなく「誰かに解決してもらう」と考える思考のくせがついてしまっている。このような理由で「告げ口」は日常化していく。
「告げ口」する子は常に人の嫌な部分を見ている。人の言動を否定的にとらえ、肯定的にとらえることができない。

そのように考えていくと、「先生。◯◯くんがね…」と言われた時、教師の果たすべき役割が見えてくる。 教師がどんなに力を尽くして、その問題を解決してあげても「告げ口」は治らない。 だって、その子はそれによって誰かに頼る経験を積み重ねてしまうだけだから。

教師がすべきこと。
それはひたすら「つなぐこと」
坂内さんが先日述べていたことはそれなのだ。
「喧嘩しちゃったのね。解決したら先生のところに来てね。冷静に話し合えそうになかったら、誰か付けるよ。」
これはかなり奥が深い言葉だと感じる。

この言葉は深い。
まず先生が乗り込まないことによって、自分が問題に直視せざるをえない状況をつくりだしていること。
力のある人になんとかしてもらおうという甘い気持ちを柔らかく斬るのだ。
この言葉は冷たいようで温かい。その子にとって本当に大切なことに目を向けさせようとする言葉。

この後、上手に話し合いが出来る子はほんの一握りだろう。だって対話ができないからトラブルになっているのだから。うまくいかなくて当たり前。そんな考えが見えるからこそ「誰かを付ける」という言葉で支えるのだ。

もし自分で話し合いがうまくいったら、おもいっきりほめてあげればいい。
そして「あなたは人と対話をして自分で解決する力があるね」と自信を刻んであげればいいのだ。
告げ口をするのではなく自分で解決をする経験がその子を変えていく。

しかし、話し合いはそんなにうまくはいかない。その時はその子が心を開いて話を聞いてくれそうな人をつけてあげるのだ。それをつなぐのが教師の役割。子どもたちは優しく素直だ。解決の話し合いについてほしいと頼まれた子は誇りを感じ、全力で双方のケンカを解決に導こうとする。

そこに教師の入り込む余地は一ミリもない。
自分たちで話し合おうという意志があり、それに全力で力を貸してくれる友達がいる。
その話し合いは温かく、笑いに満ちたものになる。

そして、全員笑顔で教師のもとにかけよってくる。
「先生。話し合いで解決できたよ!」と。
その時に思いっきりほめてあげる。
解決に向けて対話を続けた子どもに。
友達を思い、話し合いを支え、励ました友達に。

すると、それを見ている子どもたちも変わり始める。
自分たちで話し合うという文化が教室に根付き始めるのだ。
あらゆる手を尽くして対話をし続けること。それに価値があると感じ始めたとき告げ口は息をひそめ始めるのだ。

教師の役割は「裁く」ことではない。 ひたすら「つなげ」「背中をおし」「励まし続ける」 それしかない。

坂内さんの言葉の奥底には彼の「在り方」が見え隠れしている。この言葉をそのまま使うだけではうまくはいかない。
彼はそれをすべての時間、すべての教科の中で伝え続けている。
だから子どもにしみる。
強烈な「在り方」が子どもを成長を導き、クラスを形作っていく。

「非難」から真の「批判」へ

「批判的思考」
このように聞くと相手を批判することに重きを置く人がいる。しかしそれは批判的思考の入り口。だれもが通り抜ける始めの段階なのだ。しかし、その入り口に留まることなく、さらに深めていくためにはどうすればいいのか?それを考えている。

「批判的思考」を「批判」で終わらず、「多角的に物事を吟味する思考」へ深めていくためには?
相手の粗ではなく、その思考に至る思考へも目を向けることが大切になってくる。

「すべての物事は善意から始まる」
この言葉は私がすでに肝に銘じている言葉だ。
幼い時は自分に合わないこと、理解できないことはすべて悪だと決めつけていた。
しかし、ぶつかり、相手の意見に耳を傾けていくうちに、相手には相手なりの正義が存在していることに気づく。

どのような取り組みにも、それに至るスタートラインは「善意」
どんな取り組みにも「さらに伸びたい伸ばしたい」という純粋な思いがかくれている。
理念レベルで物事を捉えれば、今まで私が出会った人たちはすべて「善」だった。

しかし、それを「行動」レベルで見ていくと、それは揺らぎ始める。方法があいまいだったり、ゴールが低かったり、ゴールとは反対に向かっていく方法だったり…。そこに自分と相手の「違い」が浮き彫りになっていく。

「すべての物事は善意から始まる」
そのように考えていくと、どの人の行動も「善」。
誰もが自分の中の「正義」のもとに行動しているのだ。
「正しい」「正しくない」
ではなく
「理解できる」「理解できない」
が「善」と「悪」に変化するのだ。

「批判」から「吟味」に深めていくために必要なこと。それは「相手のスタート地点が善意である」と認めること。それを認めたうえで、行動レベルのブレを指摘することだろう。始めから行動レベルに目を向けていくと、どうしても自分と違う部分のみに目が向き、相手を「非難」することに終始してしまう。

「二項対立を超える」
この言葉を自分の中ではっきりと言葉にできるようになったのは、ここ最近だ。
「すべては善意から始まる」
それがわかれば相手の戦う必要はなくなるのだ。

「批判」と「非難」は違う。
その行動のスタートに目を向け、相手を認めるところから「批判」は始まる。
その視点ができる人ほど、建設的に物事を捉えることができるのだ。