告げ口

坂内さんの記事を受けて自分なりに考えたこと。


「先生。◯◯くんがね…」
このように人のやっていることをいちいち教師に告げ口にくる子はどのクラスにもいるものだ。
このような子が来たとき、それを「チャンス」と捉えられるか否かで、クラスの成長度は変わってくる。

「先生。◯◯くんがね…」
このような言葉を聞くと、教師は暗い気分になる。
「またか…」
そして、イライラを隠せずに指導にあたる。
すると知らず知らずのうちに言葉はきつくなり、伝えたいことは一ミリも伝わらない。

まず大切になってくるのは、なぜその子は告げ口をすることが日常になっているのか?ということだ。それを冷静に考えていくと、教師がどんな言葉をかけ、何をすべきかが見えてくる。

告げ口をすることが日常化する理由は2つある。
一つ目は、その子自身が対話をすることが苦手としていることだ。相手が自分の意に添わないことをして来た時、冷静に受け止め、何がいやなのかをきちんと伝えることができない。だから教師に告げ口するという方法で、自分の思いを伝えようとする。

二つ目は、力のある者の力を借りて自分の考えを通す経験をたくさん積んでいるということ。
「大人(親や教師)に言えば自分の思い通りに物事が運ぶ」という経験がしみついていて、そこから抜け出せないのだ。

問題に直面した時、「自分でなんとかする」のではなく「誰かに解決してもらう」と考える思考のくせがついてしまっている。このような理由で「告げ口」は日常化していく。
「告げ口」する子は常に人の嫌な部分を見ている。人の言動を否定的にとらえ、肯定的にとらえることができない。

そのように考えていくと、「先生。◯◯くんがね…」と言われた時、教師の果たすべき役割が見えてくる。 教師がどんなに力を尽くして、その問題を解決してあげても「告げ口」は治らない。 だって、その子はそれによって誰かに頼る経験を積み重ねてしまうだけだから。

教師がすべきこと。
それはひたすら「つなぐこと」
坂内さんが先日述べていたことはそれなのだ。
「喧嘩しちゃったのね。解決したら先生のところに来てね。冷静に話し合えそうになかったら、誰か付けるよ。」
これはかなり奥が深い言葉だと感じる。

この言葉は深い。
まず先生が乗り込まないことによって、自分が問題に直視せざるをえない状況をつくりだしていること。
力のある人になんとかしてもらおうという甘い気持ちを柔らかく斬るのだ。
この言葉は冷たいようで温かい。その子にとって本当に大切なことに目を向けさせようとする言葉。

この後、上手に話し合いが出来る子はほんの一握りだろう。だって対話ができないからトラブルになっているのだから。うまくいかなくて当たり前。そんな考えが見えるからこそ「誰かを付ける」という言葉で支えるのだ。

もし自分で話し合いがうまくいったら、おもいっきりほめてあげればいい。
そして「あなたは人と対話をして自分で解決する力があるね」と自信を刻んであげればいいのだ。
告げ口をするのではなく自分で解決をする経験がその子を変えていく。

しかし、話し合いはそんなにうまくはいかない。その時はその子が心を開いて話を聞いてくれそうな人をつけてあげるのだ。それをつなぐのが教師の役割。子どもたちは優しく素直だ。解決の話し合いについてほしいと頼まれた子は誇りを感じ、全力で双方のケンカを解決に導こうとする。

そこに教師の入り込む余地は一ミリもない。
自分たちで話し合おうという意志があり、それに全力で力を貸してくれる友達がいる。
その話し合いは温かく、笑いに満ちたものになる。

そして、全員笑顔で教師のもとにかけよってくる。
「先生。話し合いで解決できたよ!」と。
その時に思いっきりほめてあげる。
解決に向けて対話を続けた子どもに。
友達を思い、話し合いを支え、励ました友達に。

すると、それを見ている子どもたちも変わり始める。
自分たちで話し合うという文化が教室に根付き始めるのだ。
あらゆる手を尽くして対話をし続けること。それに価値があると感じ始めたとき告げ口は息をひそめ始めるのだ。

教師の役割は「裁く」ことではない。 ひたすら「つなげ」「背中をおし」「励まし続ける」 それしかない。

坂内さんの言葉の奥底には彼の「在り方」が見え隠れしている。この言葉をそのまま使うだけではうまくはいかない。
彼はそれをすべての時間、すべての教科の中で伝え続けている。
だから子どもにしみる。
強烈な「在り方」が子どもを成長を導き、クラスを形作っていく。