きれいごと

昨日から胸を揺さぶり続けている言葉がある。
それは
「きれいごと」
という言葉。


昨日ある方々と話をしていて話題となった言葉だ。
なぜこんなに自分の胸を揺さぶり、自分の足を止め、様々なことを考えさせるのか?


何度も何度も考えていて、その答えが見つかった。


そうだ。3年ほど前、この言葉とひたすら向き合っていた時期があったんだ。


http://manabitudukeru.g.hatena.ne.jp/furu-t/20120810/p1


「きれいごと」「建前」と言われているものに真っ向勝負をかける。


この言葉から始まるこの記事。
あの時、自分はこの「きれいごと」という言葉に嫌悪感を抱いていた。


「そんなことを言ったって、実際はそうはいかないよ」
「それは理想。どんなにきれいごとを並べても現実はそう甘くはない」
そんな言葉に「本当か?」と考え続けてきた。


子どもたちはかしこい。
教師が本気で語っているのか、建前で言葉を並べているのかを簡単に見抜く。
教師が自分の言葉を「きれいごと」と思った時点で、言葉は力を失う。
自分が語っていることを「きれいごと」ではなく、本気で信じるためにはどうすればいいのか?
それをずっと考えてきた。


「きれいごと」は「きれいごと」なんかじゃない。
本気で追い求めれば誰もが「きれいごと」と線を引き、あきらめるものの中に宿る真理に辿り着けるのではないか?
「きれいごと」をそのままで終わらせない。
「きれいごと」という言葉と本気で勝負をする。
あの頃の自分は本気でそう考えていたんだ。


「確信があるから語る」のではない。
「語っていくからこそ確信が生まれる」のだ。
確信なんてなかった。
でも泥臭く語り続けた。


あぁ。いつの間にか忘れかけていた。
あの頃の自分を。
今回の対話の中で理解した。
いつのまにか自分の中で「きれいごと」が「きれいごと」ではなくなっていたということに。
「確信をもって語る」
ことがいつのまにかできるようになっていたんだな。
ずいぶん登ってきたんだな。
そんなことを考えさせられた。


自分を振り返る大切な言葉はいつでも自分の外からやってくる。
自分の中で「あたりまえ」になって、目も向けずにいたものをそっと掘り起こしてくれる方々が近くにいること。
本当にありがたいなと思う。


今の自分は
「建前」「きれいごと」に真っ向勝負をしようとは思っていない。
「建前」「きれいごと」は形を変えるもの。
ある人の前ではそれは「きれいごと」になる。
しかし、違う人の前では「本気で追い求めようと思えるもの」となる。


時期、出来事、周囲の環境によってその言葉が「きれいごと」かどうかはクルクルと変わっていくものなのだ。
変わるのが当然。だからこそおもしろい。


「きれいごとを本気で語る」
一生に一人くらいそんな教師に出会ってもいいんじゃないかな?
自分ができることは
「本気で語ること」しかない。


過去の自分と対話するっておもしろい。
そのきっかけをいただけたことに感謝。