ご指導

研究授業の指導を聞いていると2つのタイプの指導が存在するなと感じる。


1つ目は足りない所をあれこれとあげつらうご指導。
いわゆる厳しいご指導。
2つ目はこまごまとした良い所をあげてほめて励まして終わるご指導。
いわゆる優しいご指導。


人間は「ほめられて伸びるタイプ」もいれば「厳しくされて育つタイプ」もいる。
そう考えると研究授業のあとにどんな言葉をかけるのか困るのかもしれない。1時間という切り取られた授業時間を、「いかに教えたか?」という教師中心の視点で見ていけば「厳しさ」「優しさ」の二者択一のはざまで悩む。
「厳しさ」「優しさ」という視点だけでは良い授業をつくりあげることは難しい。


自分が考えるに指導する立場の人にはもう一つの視点が必要なのでないか?


その視点とは「連続したものの一部として看取る」視点。



「授業をみる目」という言葉がある。
ではどのような人が「授業を見る目」があるといえるのか?
足りない所を見抜けること。人の目には見えない変化、すばらしさに気づけること。これらはどちらも「授業をみる目」に繋がっているだろう。
しかしそれは1時間という切り取られた時間にしか適用していない。


指導者には広く広く物事を見る目が必要とされるのではないか?
1時間、1単元、1学期、1年間…長い長い時間の中で子ども達が今どの段階に至っているのか?
それを即座に見抜くことができることが真の「授業をみる目」なのではないか?


一時間の授業を見て「良い」「悪い」は誰でも論じられる。
しかし、この子ども達は今どんな段階なのか?
それを看取り語ることができる教師は少ない。


集団が「形成期」なのか「混乱期」なのか「標準期」なのか「達成期」なのか?それを即座に見抜ける人こそが「みる目」がある教師なのではないか?
そのような目をもっている教師は必ずいる。
しかしその教師があまり表舞台に現れないのには理由がある。それは


子ども達の段階が見えない授業が研究授業として行われているから。
ダイナミックな交流がなければ集団の様子が見えてこない。
わずか5分程度のペア学習を活動として位置づけても、教室の奥底に流れる息づかいは聞こえてこない。



研究授業は「クラスの段階」を話し合う絶好の場面のはずだ。
それを「育っていない」といって教師主導の授業で覆い隠しては何も見えてこない。
研究授業だからこそ、課題を明確にしてダイナミックに交流しクラスの状況を看取る場にするべきなのではないか?
そのうえで指導者は語る。
今この集団がどんな状況であるのか?
その状況をさらに磨いていくには日々何をすべきか?
重箱の隅をつつくようなこまごまとした指導ではなく、広く長い視点を持って、明確に指を指す。
教師がいかに教えるかではなく、子ども集団をいかに磨くかを。



研究授業は担任がクラスの状況をじっと看取る時間。



そんな考えが浸透すれば、互いに授業を見合う時間が苦しいものではなくなる。
「やればいい」
「終わればいい」

そんな研究授業はもったいない。
授業者も、指導者もその1時間を「連続した一部」として感じ語り合う。
そんな価値観が生まれればなぁ。と日々思う。