予習がスタートダッシュを決める
「さあ、話し合いを始めよう!」
先生がそう言った時、パッと子ども達が学び出すクラスとそうではないクラス。
この差はどこにあるのでしょうか?
パッと動き出せるクラスは能力が高い?、
動き出せないクラスは能力が低い?
いえいえそうではありません。
子ども達は誰もがパッと学び出せる能力をもっています。
動き出せない子ども達に足りないのは
「学校ではどう学ぶべきか」という考え方なのです。
考え方とは何か?
それは「学校では学校でしかできないことをしよう」という考え方です。
学校でしかできないこととは何でしょうか?
もちろんそれは友達と繋がり合って学ぶことでしょう。
教師は子ども達には常に語り続ける必要があります。
「学校では学校でしかできないことをすべきだ」ということを。
その考え方をもとに子ども達の学びを振り返ればいろいろなことが見えてきます。
「さあ、話し合おう」と言った時「う〜ん」と考えこんでいる子どもがいたらどんな声をかけますか?
一見一生懸命に考えているように見えるかもしれません。
しかし先ほどの「学校では学校でしかできないことをしよう」
という考え方に基ずくとこの子どもの学びは決して良い状態とは言えません。
1人で考え込むことは「家でもできること」です。
その子の学びは「学校でしかできないこと」ではないのです。
先生が「さあ始めよう!」といった瞬間に
「ねえねえ、昨日考えていてここの部分がいまいちわからなかったんだけどさ」
と人とすぐにコンタクトをとれるようにしておくべきなのです。
だからこそこういう子ども達には語り続け、胸に刻み続けなくてはなりません。
それ「学校でしかできないこと?」と。
そう問い続けることで子ども達は授業にどう臨んでいくべきなのかを考えることができるようになってくるのです。
子ども達に常に考えさせる。そして時には教師自身が在り方を語る。
子ども達を成長させるにはそれらを繰り返すしかありません。
子ども達にはよくこんな風に語ります。
「みんなで勉強できる時間はたった45分しかないよね?この時間を有効に使うにはどうすればいいかな?授業が始まったらすぐに走り出せるように準備しておく必要があるんじゃない?」
「短距離走も同じでしょ?
よーいドン!の合図が鳴ってから準備体操をしていたらどう思う?
おかしいよね?そんなことはピストルがなる前に自分でやっておくべきことでしょ?
授業もそれと同じだよね。自分でやれるべきことは自分でやっておく。それは当たり前のこと。それを「予習」というんだ。」
予習とは何か?
それは学校で学習する内容を完璧にできるようにしてくることではありません。
(それができれば素晴らしいでしょうが、そもそもそれができたら学校は必要ありません)
予習とは
「自分がわからないことをわかるようにしてくる」
ということです。
それがわかるだけで「よ〜いどん」でスタートができるようになるはずです。
教師が「さあ始めよう!」
と言ったときの動きが悪い時は立ち止まって考える必要があります。
スタートの段階で学ぶ姿勢が出来ていないのか。
それとも課題が理解できていないのか。
原因はいろいろと考えられるはずです。
教師は子ども達の動きで子ども達の学びの良し悪しを感じ取れるようにならなくてはいけないのです。