(1)教師として必要な想い

「良い授業をしたい!」
そんな想いを抱きながら毎日悪戦苦闘し続けていた20代。
「わかった!」「できた!」「なるほど!そういうことか!」
そんな子どもたちの声が聞きたくてがむしゃらに突き進む毎日でした。
毎晩遅くまで教科書とにらみあい、明日の授業をイメージします。
「まずこれをやり、次にこれを確認して、発問は…」
流れをイメージしていくうちに少しずつ授業がかたまっていく。
「よし!これならきっと楽しい授業になるぞ!」
自信を胸に次の日の授業に臨みます。
しかし…
「あれ…?ちょっとイメージと違うぞ…。こんなはずじゃなかったのに…。」
少しずつ自分のイメージしていた方向とは違う方に授業が進んでいくのです。
焦って、軌道修正をしようとすればするほど、子どもたちの表情はこわばっていきます。
焦りの中で無情にも終了を告げるチャイム。
最終的には自分がやりたかったことの半分もできずに授業終了。
「はぁ…。」授業後、肩を落として歩く廊下。
どんなに努力しても自分が納得できる授業ができない。
そんな毎日の繰り返しでした。
「子どもたちが好きなんだ。子どもたちの笑顔が見たいんだ。」
でもそんな情熱だけはありました。授業後、一人考えます。
「今回の流れはだめだったな。どんなことをやれば授業がうまく流れるかな?」
ただただもがく日々が続きました。
しかし、そんな時、ある方から心を突き刺す問いを投げかけられました。
「あなたはなぜ教師という職についたのですか?」
私は答えました。
「子どもが好きだからです。そして、教えることが好きだからです。」
その方は私の目を見て静かに言いました。
「それではだめなんだよ。」
「???」
私にはその意味がわかりませんでした。
子どもが好き。教えるのが好き。
教師になった理由としてこれ以上のものがあるのでしょうか?
「その気持ちはすごくわかる。でも子どもが好きという想いだけでは教師とは言えないんだよ。」
その方は静かに語り始めました。
確かに子どもが好きでなければこの職業は成り立たないよね。
でもそれは教師として当たり前のことだね。
その理由は胸を張って答えるようなことではないんだよ。
大切なのは「子どもが好き」という思いの奥にあるもの。
ただ「子どもが好き」というだけでは本当の教師にはなれないんだよ。
「子どもが好き」の奥にあるものを見ようとしない教師は必ず子どもに甘くなってしまう。
好きだからこそ叱れない。好きだからこそ踏み込めない。好きだからこそ甘くなる。
安易に手を差し伸べることを優しさと勘違いしてしまうんだ。
子どもたちが自分を必要とし、常に頼られ、問題を取り除いてあげることが教師の役割だと勘違いする。
自分は必死に良い先生になろうとしているのかもしれないよね。
でも、子どもたちは教師に頼ることを覚え、常に依存し、自分で判断できなくなってしまうんだ。
「子どもが好き」という想いだけでは空回りしてしまうんだ。
私たち教師に大切なこと。それは
「子どもが好き」を超えて「子どもを育てるのが好き」でなければならないんじゃないかな?
「子どもが好き」ではなく「子どもを育てることが好き」ということを胸を張って言う。
それによって「育てる」という言葉の意味を見つめるようになってくるんだよ。
「子どもたちを育てる」それは「子どもたちを成長させていく」ということ。
体だけでなく、心も。
自分の足でしっかりと歩んでいける人間に成長させていくということ。
「子どもが好き」という教師は子どもを「子ども」にしてしまう。
時には「赤子」にまで退化させてしまう。
「子どもを育てるのが好き」という教師こそが子どもを「大人」にしていくんだ。
頭を殴られたような衝撃を受けました。
「子どもが好き」「教えることが好き」という想いだけで突き進んできた自分。
しかしこれは単なる自己満足でしかなかったのかもしれません。
授業に失敗しても「自分は懸命にやっている」という言葉に逃げていたのです。
「子どもたちが好きだということはわかった。しかし、自分は教師として子どもたちを成長させられていたか?」
そんなことを考え始めました。
うまく授業が進められない。
子どもたちに対する罪悪感が判断を鈍らせていないだろうか?
「優しさ」が「甘さ」にすり替わっていないだろうか?
そんな自分のもとで、子どもたちは「成長している」と言えるのだろうか?
「子どもが好き」その思いは教師に限らず多くの方がもつ感情です。
教師にしかできないことを追い続けなければ教師の存在価値はありません。
自分の考えが浅はかであったことに気づかされる対話でした。
(2)に続く