孤独の価値とは?(4)

では、私は何を目指すのか?
「孤独というものの価値」について論じていると、



「誰とも繋がる必要なんてない。常に孤独でありなさい」
「俺は孤独でいたいんだ!だから近寄るな!」



なんて勘違いされてしまうかもしれません。
しかし、勘違いしてほしくないのは、私が目指す道はこれとはまったく違うということです。




私が目指すべき場所。
それは「否定の中に肯定を見出す眼を養うこと」です。



「孤独」と聞けば、だれもが暗くなります。
自分の身から遠ざけたくなります。
「孤独」という言葉に人は否定的な感情を抱き、知らず知らずのうちに嫌悪感を示します。
私もそうでした。
だから、ずっと伝え続けていたのだと思います。
「孤独にはなるな。人と繋がれ。」と。



しかし考えてみるとそれは、「人と繋がることの価値の追求」ではなかったのです。
それは単なる、「孤独への恐怖」に過ぎなかったのです。



教育は「恐怖」をエネルギーにしてはいけないと感じます。
確かに「恐怖」によって人を動かすことは簡単です。
しかし、それによって知らず知らずのうちに心が削られていくのです。



私は「孤独」という言葉におびえ、その中に感じる恐怖から逃げるために、人との繋がりを求めていたに過ぎません。



しかし、「孤独」という言葉へ価値を見出せたことで、その恐怖は消えました。
「孤独」であることが人を伸ばすことだってあるのです。




オセロの黒を白にひっくり返すように、自由自在に解釈を変えていける。
これが「否定の中に肯定を見出す眼」なのだと思います。


「こうでなければならない」
「これではいけない」
「これは悪いものだ」
とすべてを否定してしまうのではなく、解釈によってその中に価値を見出していく。
そんな教師でありたいものです。




「否定の中に肯定を見出す眼を養うこと」


これはなにも「孤独」という言葉に限ったことではありません。
「失敗」や「争い」といった言葉でも同じです。
これらも人に嫌われる言葉です。
これを避けようするのが自然でしょう。



しかし、この言葉に価値を見出せる人は、全面でそれを受け止め、その価値を語ります。
逃げも、遠ざけもせず、その中から価値を見出していく。
これが自然にできるようになったら、この世に「悪」というものは消えうせるのでしょう。
解釈によって、すべてを肯定的に見ていく。


「みんなはそれをだめなものって思うよね。」
「でもね、それが実はすごく大事なんだよ。」

どんなものにもこんな風に心から語ることができる。
そんな眼をもつ教師でありたい。
「孤独」という言葉を考えることで、そんな風に強く思いました。