孤独の価値とは?(3)

「学び合い」の最終目的地は「孤独」である。
「孤独」の本当の意味を理解するために、「学び合い」が必要なのだ。



最近そんなことを感じ始めました。




これは以前とは正反対の価値観となります。
(1)の記事でも述べましたが、「学び合い」をはじめたころ、自分の心に生まれた確信がありました。
それは


「人と繋がり合いながら学ぶことが、未来を切り拓いていくためには必要不可欠である」


という考えです。


繋がり合うことが未来を切り拓く。
盲目的にそう信じて突き進んできた時期がありました。



しかし、それに対して軌道修正を迫られることとなります。
なぜならば、いくら学び合っても、人と繋がり合っても、輝く未来が保障されるわけではないのではないのです。




「学び合い」の質をあげていくためには、
「馴れ合いの関係」から「信頼関係」へと人間関係を高めていく必要があります。




「馴れ合いの関係」とは何か?
それは貫き通す想いがなく、ただ一緒にその場にいるという関係です。
この関係の中で重要になってくるもの。
それは「居心地のよさ」です。
優しい言葉をかけあい、楽しさ(らくさ)を追い求める。
互いに批判はせず、より高いものを求めることもありません。



「馴れ合いの関係」は「言葉の繋がり」です。
それに対して、「信頼関係」とは心の繋がりです。



「教えてあげるよ」という「言葉」によって繋がるのでなく、
「私は全力で自分のやるべきことをやるよ。でも何か困ったら何でもいってくれよ」という「心」で繋がるのです。



これがすなわち「言葉」による繋がり(きつい繋がり)と「心」による繋がり(ゆるい繋がり)なのです。



学び合いの質が高まっていけばいくほど、言葉は減っていき、心による繋がりがメインになっていきます。
学び合うことは減り、各々が自分自身の課題を必死に行いながらも、心は繋がっているという不思議な状態になるのです。



これは
「人との繋がりを安易に求めない状態」=「(物理的)孤独」
であるといえるでしょう。



「学び合い」の最終目的地は、「学び合わなくても心が繋がっている状態」なのです。
精神的には心の繋がりがあります。
しかし、物理的には「孤独」な状態を意味するのではないでしょうか?



安易に人との繋がりを求め、その中で安心感を得ることへの執着を捨てること。
人と繋がっていなくても、地に足をつけて、一歩一歩着実に進んでいくことの価値を知ること。
これが学び合いを行う意味なのでしょう。




「学び合い」の最終目的地は「孤独」である。
「孤独」の本当の意味を理解するために、「学び合い」が必要なのだ。



一見矛盾しているこれらの言葉の意味が繋がり始めた気がします。
一人でもいい。いや、むしろ一人がいい。
単なる強がりではなく、本気でそう思える強さを磨いていく。
そのために「学び合い」をしているのだ。
そんな風に語れるようになりつつあります。