孤独の価値とは?(1)

学び合いに出会った頃、一つの確信が自分の中に生まれました。
それは


「人と繋がり合いながら学ぶことが未来を切り拓いていくためには必要不可欠である」


という考えです。



子どもたちが前を向き、じっと教師を見つめる。
教師と子どもという縦の会話が中心で進む授業。
子ども同士の横の会話はほんの少し。
そのように子どもたちが切り離された状態で「人の繋がり」が生まれるわけがない。
「人の繋がりを生みたい」
という強烈な願い(焦り)が自分を突き動かしました。
それによって自分がとった手法。
それが「きつく繋げる」という手法です。



簡単にいうと
「お前たち、学び合え!」と子どもたちに求めるもの。
人と繋がり合うことに価値を求め、繋がり合って学んでいることを見ると安心し満足する。
そんな日々が続きます。



しかし、その手法はほころびを見せ始めます。
目標を提示し、そのために強いる学び合い。
その中で必ず疲弊していく子が生まれるのです。
「きつく繋げる」という手法のもとでは
学び合いが、いつの間にか教え合いに姿を変えていくのです。



そんな悩みを抱えながら、坂内さん、高橋さんとの会話を重ねて創りあげた手法が
「ゆるく繋げる」
という手法です。



簡単にいうと
「学び合わなくてもよい」
というもの。
「学び合い」をしながら「学び合わなくてもよい」と語る。
一見矛盾しているように思えますが、これを子ども達が納得できるように語れるようになりました。



いつも一緒に勉強していなくてもいい。
いつも話し合う必要なんてない。
自分のやりたいことをやりたいように突き進んでいい。
でも、困った時は「教えて、助けて」といおう。
それを聞いたら全力で助けてあげよう。
物理的な接触はなくても、お互いに心は開き、繋がっていよう。
それが「ゆるく繋がる」ということ。



これについては何度か記事を書いています。
http://manabitudukeru.g.hatena.ne.jp/furu-t/20130602



このあたりについて考察を深め、その価値を求め始めてから、自分の実践という概念がなくなり始めました。
「学び合い」でもなく「非学び合い」でもないのです。
どっちでもないし、どっちでもあるのです。
自分が何者か?何に向かっているのか?
そんなことがわからなくなり始めました。



2年前ぐらいからでしょうか?
「結局自分が子どもたちに伝えたいことは何なのか?」
そんな終わりのない答えが常に湧き起こります。
学び合う価値を教えたいのか?
それとも学び合わずとも突き進んでいくことの価値を教えたいのか?



どちらも大事。
どちらも価値がある。
時と場合による。
そんな風に自分を納得させながらも、常に心の底には疑問がわきあがるのです。



しかし、ある一冊の本との出会いでその疑問への答えが見え始めました。
これは実はとてつもなく深い命題であったことに気づいたのです。
その命題をひもとくキーワードは?
それは「孤独」という言葉でした。


つづく