孤独の価値とは?(2)

私が常に感じていた疑問をときほぐしてくれた本。
それは
「幸福について―人生論―」
ショーペンハウアー
です。
彼は、著書の中で「孤独」の価値を訴えます。




「孤独」という言葉は誰もにマイナスのイメージを抱かせます。
ゆえに人は「孤独」を人は忌み嫌い、孤独を遠ざけようとします。
しかし、本当に価値のある人生を送りたければ、孤独の価値を感じ、孤独を愛し、孤独を楽しみながら生きることが大切であると述べるのです。



しかし、この考え方を見つめていく中で、私は2つの問いに突き当たりました。
それは



「人は孤独に生きていくことは不可能でないか?」
「孤独に生きていくことが幸福に繋がるのならば、学校の存在意義とはなんなのか?」
という問いです。



我々は一人では生きていくことはできません。
必ず誰かの助けが必要です。
人との繋がりの中で生きている私たちに「孤独」を求めるのは理想論ではないか?
という問い。
人が集まり、人との関係の中で子どもたちを育てていくのが学校。
しかし、「孤独」の存在意義を前面に押し出したら、学校の存在意義はなくなってしまいます。
この問いは自分が今まで漠然と抱いてきた疑問です。
この問いに対してショーペンハウアーはこう述べています。
これは私にかなりの衝撃を与えました。



以下、書き出してみます。

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われわれ人間は生まれながら独りでなく、両親と兄妹の間に、したがって共同体のなかにいたという意味では孤独は人間にとって自然なものではない。
こう見れば、孤独を愛する気もちは本源的な傾向として存在するはずがなく、経験と熟慮の結果として後に生ずるものである。
しかもそれは自己の精神的能力の発達に応じて生ずるものであるが、他方同時に年齢の上昇に伴って生ずるものでもある。
したがって全体として見れば、人間各自の社交本能はその年齢とおそらく反比例するであろう。
幼児はものの数分間でも独りにしておけば、もう怖がり悲しがってわめき立てる。
少年には独りで置くことが非常な折檻になる。
青年はとかく相寄り相集まる傾向がある。
そのうちでも優秀で見識の高い者は早くも孤独を求めることがある。
それにしてもまる一日独りで過ごすのは、まだ苦しい。
これに反して、壮年者にはそうすることも容易である。
こうなればけっこう独りでいることもできるし、年をとれば取るほど、そうすることができるようになる。
今は死に絶えた世代に属して一人だけ生き残り、あまつさえ一面今さら人生の享楽でもあるまいし、他面そうして享楽と縁がなくなってしまったというような白髪の老人には、孤独こそ得意の天地である。
とはいえ、ともかく、個人個人の心のうちでは、孤立・孤独の傾向がその人間の知性の高さに応じて強くなっているようだ。…

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うならされる文章である。
そして的確だ。
最終的に向かうべき場所は「孤独」であるが、子どもたちに「孤独」を強く求めることは難しいのだ。
心が育っていない状態で「孤独」を押し付けたら、子どもたちの心は壊れていく。
「学校の存在意義」は確かにあった。
「孤独への価値」は最終的に辿り着くもので、初めから心にあるものではないのだ。

このように考えていくと、
「孤独への価値を感じること」

「他者との関係を育むこと」
の整合性が生まれてきます。

「孤独への価値を感じること」は最終的目的地であるが、そのためには必ず「他者との関係を育む」という通過点が必要なのでしょう。

「一人でいなさい。孤独でありなさい。」
とも語れず、
「人と繋がることに価値があるんだ。」
とも子どもたちに語れなかった自分。

しかし、これが一本の線に繋がったことで、力を抜いて
「孤独の価値」「他者との関係を気づくことの価値」の両方を語れそうな気がします。

つづく