「よい授業」とは失敗の不在によってもたらされる

最近強く思うことがあります。
それは
「幸せ」とはよそには存在しないのではないか?
ということです。



「幸せになりたいなぁ。」
「幸せになるにはどうすればいいんだろう?」



昔からよくこんなことを考えていましたが、その考え方は少し違うのかな?と思い始めました。



以前の自分が考えていた構造はこうです。



幸 せ
 ↑
普 通
 ↑
不 幸


しかし、実はこうなのではないか?思い始めました。


普 通(当たり前)=幸 せ
 ↑
不 幸



「幸せ」は「幸せ」として存在するのではない。
「幸せ」とは「不幸」の不在によってもたらされるものだ。



この言葉はすごく自分の考えにぴったりとくるなぁと感じます。
(まぁ、不幸があるから幸せがある、と考えると不幸もまた幸せなのですが、これはおいておきます。)



そう考えると、安易に「幸せの幻」を追い求めることはなくなります。
「幸せ」を探すより、「不幸」を1つずつ減らしていくという考え方になっていくのです。
「不幸」と考えていたものを解釈を返ることでプラスへと変えていく。
そうして「不幸」なものを消していくことで、知らず知らずのうちに幸せが訪れている。
そんなイメージです。



「幸せになりたい!」
ともがき苦しむより、「不幸」と思うものを消していく。それが大事。




最近思ったのですが、これは「授業」に対する考え方としても同じだと思います。
教師である以上、どうしても「素晴らしい授業」を追い求めがちです。
いわゆる「ごちそう授業」というやつです。
「幸せになりたい!」
と願うのと同じように
「授業がうまくなりたい!」と願いひたすら突き進みます。



しかし、もしこのように考えたらどうでしょうか?



「いい授業」など存在しない。
「いい授業」とは、「失敗」の不在によってもたらされるものである。



私たち(坂内さん、高橋さん)が追い求めている実践のインタラクティブカリキュラム。
これはある意味めちゃくちゃ地味です。
だって、簡単に言えば
「一度習ったことを、いろんな教科で何度もくりかえそうね!」
という単純なものですから。
話し合って、まとめる。また話し合って、まとめる。
いつでもどこでも、どんな教科でも。淡々と同じことが続きます。
しかし、やっていることは同じでも「教科、題材、学ぶ相手」などが変化するので、子どもたちがあきることもありません。



しかしめちゃくちゃ地味です。
わかる人にはわかりますが、わからない人には全然わかりません(笑)
だから、全然華はありません。でも間違いなく力はつきます。
これが「インタラクティブカリキュラム」なのです。



これは「成功すること」ではなく「失敗しないこと」(安定して学び続けられること)をベースにしているからこそ、あえてとっている手法です。



100点満点の授業(成功)は目指しません。
その代わり70点以下の授業を排除し、安定的に80点レベルの授業を積み重ねていこう。
という戦略です。



「昨日はうまくいったけど、今日は全然うまくいかなかった。」
100点の授業のあとに20点の授業がくる。
これでは結局平均60点の授業です。
単発でどんなにすばらしい授業をしたとしても、継続できなければ意味はうすいでしょう。



安定的に学び続けるためには、失敗を削ぎ落としていかねばなりません。
教師がすべてをひっぱっていくのではなく、教師自身も「授業」という大きな流れの中に入るのです。




「幸せ」を追い求めるより、「不幸」を減らし、目の前の当たり前のことに「幸せ」を感じられる。それによっていつの間にか「幸せ」になっている。



「最高の授業」を追い求めるより、「失敗」を減らし、毎日続く地味なことのくりかえしにも「価値」を感じられる。それによっていつの間にか「最高の授業」が形作られていく。



これらは同じことのように思います。
今年一年考え抜いたことがようやく、日々の生活にも繋がりはじめました。
この感覚、ひさしぶりです。楽しみたいと思います。