「承認されたい!」という本能

人は常に他人からの「承認」を渇望している。
そんなことを感じます。
偉そうに書いているけれども、もちろん自分もその一人であります。


もっとほめられたい。
誰かに認められたい。
自分を見てほしい。


そんな思いは多かれ少なかれ誰もがもっているものです。
そして、その人が意識をしていなくても、「承認されたい!」という思いは心の底で人を突き動かしているのです。



人は他人からの「承認」を渇望している。
そう考えていくと、フェイスブックツイッター、ブログといったツールが爆発的に広がり、人々に受け入れられたのもうなずけます。



何かを発信し、それを見た人がコメントをする。
「わかるよ〜」
「それいいね!」
「なるほどね〜!」
そういうコメントをもらうことで、人は「承認」欲求が満たされるものです。



しかし、発信をしたことでバッシングをうけることもあります。
「炎上」などという言葉もあるように、自分の考えが全否定され、多くの人に非難されることも見られます。
このような状況は一見他人から「承認」されていないように見えます。
しかし、全否定されているこの状態も立派な「承認」です。
確かに発信した人の考えは認めてはいません。
しかし、発信した人の存在はしっかりと「承認」されているのです。
相手の存在を認めているからこそ、
「あなたの考えは違うよ」
「あなたはおかしいよ」
という言葉が生まれてくるのでしょう。



そう考えると
「肯定」=「承認」
「否定」=「承認しない」
ではなく、
「肯定」「否定」=「承認」
なのでしょう。



一番つらいのは「肯定」も「否定」もされないこと。
存在を無視されることでしょう。



こんなことを書いていたらふと、一人の友人のことが思い浮かびました。
その友人はかなり昔からツイッターを使っていました。
その方のアカウントは今では数千人のフォロワーがいます。
その方はまだツイッターが誰にも認知されていないような時に始めたそうです。
しかし、はじめはそのおもしろさが全然わからなかったと話していました。
なぜならば、「○○なう」などといくらつぶやいても、誰も返事をくれないからです。
当たり前です。周りにツイッターを使っている人がいないのですから。
いくらつぶやいても、本当の意味での独り言にしかならない。
全然おもしろくないと思って数ヶ月、ツイッターから手が離れてしまったと話していました。



「承認」されたい。
でも誰も見ていない。聞いていない。(無視)
そんな状態です。
「承認」=「無視」
という構図が浮かび上がってきます。



そう考えると、フェイスブックツイッター、などSNSと言われるツールは人の本能をうまくついているものだと、感心させられます。



「承認されたい」という欲求によって人は行動を起こします。
それによって人と人が繋がり合いながら、永遠に流れ続けるうねりを生み出すのです。
そのように自動化された大きな流れを生み出す。
それだけで、それがお金を生み出すビジネスへとつながっているのです。




SNSに人が夢中になるのは、仕方がないことです。
なぜならば、それが人の本能だから。
本能をゆさぶり、くすぐるようにつくられているのです。



しかし、私も含めて大半の人たちは、その本能が剥き出しになっている状態に気づいてはいません。


人と繋がると楽しい。
人とのネットワークが広がる。


という言葉によってそれはうまく覆い隠されているからです。
本能が剥き出しになっているのに、本人はそれに気づいてはいない。
それはとても危険なことです。


現に私も
人と繋がること=善
と妄信していた時期がありました。
人と繋がり続ければ何かが生まれる。
そんなことを考えていました。



しかし、自分は人と繋がることで得る「承認」を渇望していただけなのです。
「人に承認されたい・・・。承認されたい。認められたいよ〜!」
という本能に突き動かされていただけなのに・・・。



SNSの怖いところは、思考を飛び越えて行動へと繋がっていくことです。
自分でも知らず知らずのうちにネットにアクセスしてしまう。
前回の記事で私が妻に暗証番号を設定してもらい、アイフォンにロックをかけたと書きました。
インターネットに頼る必要があるかどうか?
考えるまもなく知らず知らずに手にとっているのです。
ロックをかけることで、本当に必要かどうかを考える距離をもつのです。
(そうすると不思議なことに、ほとんど使う必要ってないんですよね。)



知らず知らずに情報にアクセスしている。
そんな状況に陥ったら、自分が本能の赴くままに行動し始めていることに気づきます。
しかし、それは決して悪いことではありません。
SNSとはその本能が刺激されるようにつくってあるのですから。
ある意味当然なことです。
大切なのはアクセスする自分を責めることではありません。
それを「自覚」することです。
そして、それらといかに距離をとって自分の感覚が戻ってくる時間を確保するか?
が大切なのです。




「ネットサーフィン」という言葉があります。
様々なサイトを自分の興味の赴くままに閲覧していく行動のことです。
私も気がつくとネットサーフィンをしていて、時間がかなり経っていたという経験もあります。
インターネットの世界には、自分の興味をみたしてくれる何かがあるかもしれない。
しかし、それを終えた後、最終的に残るのは何か虚しい心です。
次から次へと魅力的な情報、気になる情報が目の前に現れます。
しかし、どの情報にひたっても満足できない。
次から次へと興味は移り変わり、時間だけが過ぎていく。



これは腹ペコでたまらないのに、飲食街をぶらぶらと歩いているようなものでしょう。
次から次へと魅力的なお店があらわれてくる。
「このお店で食べようか?」
とおもった瞬間に違う魅力的なお店があらわれてくる。
「よしここに決めた!」と思ったとたん、隣のお店が気になる。
情報が多すぎて結局腰を据えて食べられない。
そのうちに食事の時間が終わってしまう。
いろいろなお店の情報は得られたけれど、結局おなかはペコペコのまま。
そんな感じですね。




「承認」という話題から少しそれてしまいました。
ここでもう一度戻していきます。
結局まとめると、
?「人は他人に対する承認を渇望している」
?「しかし、その承認はある意味中毒性をもっている」
?「承認をいかに受け流しながら、自分の道を進んでいくか?が大事」
ということでしょうか?



「肯定」していただいてもそれにひたり、おごる高ぶることがない。
「否定」されても、その言葉に流されずどっしりと落ち着いている。



「肯定」「否定」という「承認」をいかに乗り越えていけるか?
そこがこれからの自分の課題になりそうです。




・・・ここまできて、余談?ですが。
教育にからめて一言。
人の本能に刻まれている「承認」という欲求を知ることは教師としてかなり役立ちます。
だって「承認」という人間本来の本能を利用すれば、勉強すらも自ら進んでやり続ける人間を育てられるでしょ?

世の中の優れた教師たちの学級の子どもたちは、主体的に学び続けますよね?
それはこの「承認」という欲求をうまく利用して、主体的に学ぶ大きな流れを生み出しているからです。

「自分は認められている」
「自分を認めてくれる場がある」
「自分がやったことに対する反応が見える」などなど。
そういうからくりがあるから、学び続ける子どもが生まれ、学級が育つのでしょう。
ネットサーフィンはあとに虚しさしか残りませんが、学びは力として自分の中に蓄積されていくものです。
このように人の本能である「承認欲求」をいかに利用していくか?
それを考えることが「自動化」を生み出し、大きなうねりをつくりだします。
どんなものも、使い方しだいですね。