「哲学」は若者を殺す?

「成長」という言葉の中には隠された悪がある。
「成長」とは必ずしも「善」とはいえない。
そんなことを考える。



成長するにつれて、物事に意味を見出すことができるようになっていく。
それは意味を見出さないと動けなくなっていくことにも繋がる。



「なぜ?」「なんのために?」などと問わなくとも子どもたちは全力で楽しむことができる。
その感覚をいかに失うことなく抱き続けていけるか。そこが最近関心がある所。



しかし、その感覚を失わずに成長していくことは不可能なような気もしている。
「無条件に幸せ」
その感覚を失っていくことこそが成長と言うのかもしれない。


「なぜ?」「なんのために?」
そんなことを問わずに突き進んでいける。実はこれこそが若者の強みなのだろう。
彼らは頭を通して物事を考えない。行動を通して物事を考えていく。


ある人が昔私にこう告げた



「哲学は若者を殺すよ」




確かにそうかもしれない。
「なぜ?」「なんのために?」と問わずにも前に進んでいけることこそが彼らの特権。
この感覚は成長にしたがってしだいに消えていくもの。
だからこそ急いで大人にする必要なんてない。



「哲学」というのは考えて、考え抜いた先に答えを求める。
しかし、子どもたちは考えることなく、常に答えは自分の感覚にある。
このズレに気づくことなく、大人の価値観に子どもたちを引き込んではいけないのではないのか?
最近そんなことを考える。



「成長させる」=「大人にさせる」
と考えるとそれはあたかも善をなしているかのように思われる。


しかし、
「成長させる」=「子どもだけがもつ感覚を失わせる」
と考えていくとどうだろう。
子どもたちを成長させるという行為を迷うことなく「善」と呼べるだろうか?



「成長」ってなんだろう?
そんな問いをもつようになってから子どもたちを急いで成長させることなんてないのではないか。と考え始めた。
彼らにじっくりと「今」を味わわせる。
それと同時にその感覚を失った時の道標となる言葉を刻む。



彼らの世界が広がるにつれて、見えるようになるものがある。
しかし、彼らの世界が広がるにつれて見えなくなっていくものがある。
見えるものが変化していくこと。
それが「成長」というのだろう。



今年、1年生の担任をしなければこのズレに気づくことはなかっただろう。
自分の感覚に引きずり込むことを「善」として疑わない教師であっただろう。
自分の矛盾に気づきながら今年も何かが繋がるのを待つ。