「存在」の肯定

昨日「子どもの姿を語る会」の忘年会に出席した。
いろいろな人と話をすることは大切だ。
自分が今まで繋がっていながったことが、スッと繋がる瞬間に出会える。
昨日もそんな瞬間があった。
学びのメモである。



子どもたちがどんな時も主体的に学び続けていくために必要不可欠なもの。
それは自己を「肯定」する力だろう。


自分を肯定する力が心の中にあれば、どんなにつらいことが起こっても再び歩み出すことができる。
反対に自分を肯定する力が弱ければ、歩みは止まる。自分を責め、どんどん負のスパイラルに入っていく。
自分を肯定する力を養っていくこと。
それが学び続ける人間を育てるためには大切になってくる。



「自分を肯定する」というのは「自分をほめる」ことではない。
自分のもろさや弱さ。醜さや足りなさ。
そういうものをも含めて認めてあげることである。



自己肯定感を育てていくために必要なこと。
それは自己を肯定される場面を数多く生み出すこと。それしかない。



しかし、「認める」ということは難しいことである。
どんなに口先で相手を肯定しても、心には響かないだろう。



ここで大切になってくる視点。
それは
「肯定」は3段階にわけられる
ということだ。




1つ目は「結果の肯定」



すばらしい結果が出た時に認めるという行為。
「すばらしい成績をとったね」
「できるようになったね」
このような種類の肯定である。




2つ目は「行動の肯定」




結果が良い結果に繋がっても、結果がふるわなくても行動したことに対して行う肯定だ。
「がんばったことが次に繋がるね」
「行動に起こしたあなたに価値がある」
という種類の肯定である。
「結果の肯定」「行動の肯定」




これらは表裏一体である。
結果が出た時に我々が行うものが「結果の肯定」
結果がいまいちふるわなかった時に行うものが「行動の肯定」だ。



しかし、この種類の肯定は重要であるが、もろさも含んでいる。



「結果の肯定」「行動の肯定」
これらは条件着きの肯定なのだ。



結果を出した。
結果が出なくとも行動した。という条件のもとのみで行える肯定なのだ。



もし仮に「行動すること」も「結果も出すこと」もできない状況に陥った時、言葉は出なくなる。
これがもろさとなる。



本当に行き詰まった時、人は行動を起こすことが怖くなる。
もちろんそれで良い結果が出るわけなはない。



「結果・行動の肯定」だけではこのような状態から立ち直らせることはできない。
「結果ができない自分はだめ」「行動できない自分はクズ」という部分をかえってはっきりとさせてしまうからだ。




そこで大切になってくるもの。
それが3つ目の「存在の肯定」である。




結果が出れば価値があるわけではない。
行動していれば価値があるわけではない。
結果が出ても出なくても、積極的に行動していても、動けずにいても関係ない。
存在していることだけで価値があるということだ。





「存在の肯定」は広く深いものだ。
「結果の肯定」や「行動の肯定」は人としての強さを肯定する。
しかし「存在の肯定」は人としての強さも弱さも、美しさも醜さも、善も悪もすべてを包み込んで肯定するものだから。




「行動」することが出来て「結果」が出た。だから「存在を肯定する」のではない。
「存在の肯定」はゴール地点にあるものではない。
そのような状況下で育った自己肯定感はもろくはかない。




「存在の肯定」がスタートラインにあるのだ。
「存在を肯定」してくれるからこそ、「行動」出来る。
そして「結果」に結びつくのだろう。




「存在の肯定」が根底にある教師の言葉は温かい。
いくら子どもたちの自己肯定感を高めようと努力しても、「存在の肯定」という視点が抜け落ちていると言葉は宙をまう。
こどもたちの心には届かない。




「あなたがいてくれるだけでうれしいよ」
「そういう所も含めて好きだよ」
「どんな状況であってもあなたには力があるよ。」
「そのままでいい。そのままがいい。」
このような言葉を心に刻まれた子どもは強い。






「自分を肯定する力」
これは「自分の存在自体を肯定する力」だ。



「自分には力がある。なんでもできる。」ということではないのだ。
「弱くても・もろくてもいいんだ。自分は自分なんだ。ここにいていいんだ」
こう思えること。
日々子どもたちに接していると、どうしても「結果」と「行動」に目を奪われがちになる。
そんな自分を引き戻す大切な視点をいただいた。感謝である。