善も悪も存在しない

人生そのものには目的も意味も価値も存在しない。
それを理解したうえで、いかに自ら目的や意味や価値を創造していくか?
そこが大切なのだろう。



人は皆、誰もが「孤独」である。
一人で生まれ、一人で死んでいく。
一人一人背負う運命も異なる。
どんなに人と語り合っても、学び合っても最後には孤独に歩み続けていくしかない。
協同学習を行うならば、その矛盾と真っ向から向き合う必要がある。



人の数だけ「善」と「悪」は存在する。
我々は自分と似ていて、理解できるものを「善」と見なし、
異質で、理解できないものを「悪」と見なすことが多い。



似ているか?似ていないか?
これは「善悪」とはまったく関係ないこと。
理解できるかできないか。
これも「善悪」とはまったく関係はない。



誰もが悩む。
悩み、悩み尽くした中で何を得て、何を語るか?それが大切。
誰もに通じる正しいことなんてない。
「真実」なんてない。
「善悪」なんてない。
その視点に立って物事を見た時、すべての価値は消え失せる。
それが大いなる悟り。
自分の正義を振りかざすこともなくなるし、相手の悪をあばきたてることもなくなる。
正しい、正しくないではなく。「ただ在る」だけとなる。



どちらが価値があるか?
何かと比べるから優劣が生まれる。
人と比べているうちは幸せにはなれない。
人との比較で得る幸せは、人との比較でもろく崩れ去る。



この世には意味も価値もない。
すべてを無価値のものとして捉えたとき、物事の優劣は消え失せる。
優劣のなくなった世界で頼りになる道標。
それは自身が「いまここ」にあるという感覚だけ。



こうあるべきだ。こうでなければならない。
これらはすべて「善悪」の概念から生まれる。
自分を縛り付けるその思考の鎖を解き放つこと。
それが「鎖取り」であり「悟り」である。



昔は「わかってもらえない」と怒っていた。
しかし最近は違う。
「わかってもらえるわけがない」というあきらめがある。
そして「自分もわかるわけがない」というあきらめもある。



「あきらめ」とは決してネガティブなものではない。
「あきらめる」とは「明らかに見る」こと。
物事を明らかにみた(あきらめた)時、進むべき道は見えてくる。



「在り方」が「やり方」を規定する。
自分自身の「在り方」に日々目を向け、深く考えていくうちに、ぱっと浮かぶもの。
その心の声に耳を傾けられる自分でありたい。



怒り、焦り、不満、悲しみ。こういう感情に満ちていると心の声が聞こえなくなる。
いかに自分の心を安定させ、心の声を聞ける状況にするか?
でもそれが難しいんだ。