「3つの場の設定」

「考える場」「表現する場」「評価する(される)場」
この3つの場を積み重ねていくことで人は成長していく。
いかにしてこの3つの場を45分という授業時間の中に日常的に組み込んでいくか?
それをぼんやりと考え始めている。



1、「考える場」とは?
人と話したり、人の話を聴いたりしながら、自らの考え方を練り上げていく場面。
ここで大切なのは「いかに思考停止しないか?」ということ。
いかに思考停止せずに自らの意志で学び続けていくか?そこが大切となる。



過去記事 思考停止が生み出すもの
http://manabitudukeru.g.hatena.ne.jp/furu-t/20120810


この「思考停止をさせずに」という所が難しい。
思考停止させることなく、いかに主体性を維持させながら授業に取り組ませていくか?


誰もが考えたくなるような、課題を設定するのも一つの手段だろう。
しかし、我々は慣れる生き物である。そして飽きる生き物でもある。
毎日ごちそうを食べ続けたら飽きるように、どんなにすばらしい課題を設定してもそこには飽きが生まれる。
そして万人にフィットする課題などない。


そう考えていくと、「おもしろそう!」と思える課題を探し続けていくよりも、教科書に載っているようなレベルの課題の中に面白さを見出せる人に育てていくことが大切ではないか?
教師に求められる力は、興味をそそられる「ごちそう」課題を準備してあげることでなはない。目の前にあるありふれた問いをいかに「ごちそう」へと変えていくかだ。
そんな風に感じる。



どんなものに対しても学ぶ魅力を感じ、思考停止に陥らない。
それは大きな強みとなる。



協同学習、予習の推進、まとめの場面の設定・・・。
これらは思考停止を生み出さないためのテクニックでしかない。



「思考停止に陥ることなく、主体的に考える場」
が授業の中にあるか?
そこをまず自分の授業に問い続けたい。



2、「表現する場」とは?
自己問答。人との対話の中で自分の中に芽生えた考えを具体的に形に落とし込んでいく場。
それが「表現する場」だ。
書くことにこだわる理由はここにある。



1の「考える場」において、自分の考えは言葉となってはすぐに消えていく。
自分の考えも対話の中であちこち揺れ動く。
そこから一度立ち止まって、自分を見つめる場。
それが「表現する場」



教育人間塾でお世話になっている横藤雅人先生とお話した時、これを「動」と「静」という言葉で表現されていた。
まったくその通りだな。と思う。



対話をすることは「動」の行動。
それに対して自分の考えを形にすることはいわば「静」の行動である。
人と徹底的に対話をして心に生まれてきたものを、じっくりと形にする。
たくさんの考え方を学んだが、結局自分はどれを選ぶのか?
そして、それをどう表現するのか?
もう一度自身を客観的に見つめながら表現する場。
この場が人を伸ばしていく。
「書く」ことは「考える」ことなのだ。



「自分の考えを徹底的に表現する場」
これが日常的に組み込まれている授業は強い。




3、「評価する場」とは?



「評価」と聞くと我々が思い浮かべるもの。
それは「教師」→「子ども」という評価だ。



教師が「これはいい」「これは甘い」というように評価を下す。
これも確かに大切である。
しかし、この評価にもう一つ付け加えたいものがある。
それは
「子ども自身」→「子ども自身」という評価だ。



自分の学びがよいものだったのか?
それとも甘いものだったのか?
それを日常的に自分で感じることができれば強い。



子ども達は表現しながら、自分の学びに対する評価も行っている。
自分の書きたいことがあふれてくる感覚。
自分の伝えたいことがしっかりとまとめられた実感。
そういうものを感じられた時、自分の成長を感じる。
今年担任をもっている一年生は、それを体全体で表現する。
「先生!できたよ!」と。
自分自身で成長が感じられる。そういう場が日常的に設けられている。
これが子どもたちに自信を刻み、もっと伸びたいという想いを生み出していく。



「(場)所」「時(間)」「物」があればこどもたちは自ずと動き出す。
という有名な言葉がある。

同じように
「考える場」「表現する場」「評価する場」が授業に貫かれていれば、こどもたちは自ずと成長していくのではないか?
45分という短い時間の中に、それらをいかに設定していくか?
それを追い求めていきたいと日々思う。