足りないのは経験

人は誰もが自分の尺度で物事を見ています。
何かをスケッチする時、どの方向からスケッチするかによって描くものが変わります。
出来上がったスケッチはどれもが正しい。
しかし、各々にとっては自分以外のスケッチはどれもが間違っていると言えるでしょう。



物事の捉え方も同じです。
どの立場から、どういう見方でその物事を捉えるかによって解釈は異なるものです。
その解釈は人によって様々です。
それを一つにまとめることなど不可能です。
だって誰もが正しいのですから。



思考が柔軟な人はそこで想像力を働かせます。
「私にはこう見えたけれど、そっちからはこう見えるのかもしれないね」と。
柔軟な方は大きな尺度で物事を捉えることができます。



思考が柔軟な人は徳が高い、度量が広い人間であり、
思考が柔軟でない人は徳が低く、度量が狭い人間である。
そんな風に捉えがちですが、はたしてそうでしょうか?



私は思考が柔軟か否かの差は「経験」の差でしかないのではないかと考えます。



「こうあるべきだ」
「こうなるはずだ」
経験は、知らず知らずのうちに自分の中にフレームをつくりだします。
多くのことを経験することで、そのフレームは広がっていきます。



思考が柔軟であるということは、フレームが広い。
すなわち、物事の捉え方、選択の幅が広い、ということでしょう。



そんなことをふと考えて、心がほっとしました。



「柔軟な思考を手に入れるために、徳の高い人間になれ。」
このように言われたら、苦しくなります。
自分には到底無理なような気がします。



しかし、このように言われたらどうでしょうか?
「柔軟な思考を手に入れるために、多くの経験を積みなさい。」
これなら、自分でもできそうな気がしてきます。



様々な経験を積むこと。
その中で自分自身のフレームを広げていくこと。
今自分にできることはそれしかないのだと感じます。



日々経験を積み重ねながら、もう少しじたばたしてみようと思います。