「目的」とは存在するのか?

人が学び続けるためには「目的」が必要不可欠。
そう考えていた。
しかし、この「目的」という言葉の意味はもう少し考えていかねばならない気がしている。




自分の中で問いが生まれている。
それは



目的とは「未来」に存在するものなのか?
それとも「現在」に存在するものなのか?
それとも「現在」から「未来」への流れの中に存在するものなのか?
ということだ。




「こうなりたい」というのは「未来」
「こう在りたい」というのは「現在」
「こう在り続けたい」というのは「現在」から「未来」への過程。




「目的」と聞くと多くの人は、「こうなりたい」という未来への目的を思い浮かべる。
私自身もそうだった。
学び続けるためには「目的」が必要。
この言葉は「未来」への目的を意味している。




しかし、未来に対して目的をもつことは、必ずしもプラスに働くわけではない。
「未来」と「現在」を比較して比べることに繋がるからだ。
「目的」とする未来を思い描けば思い描くほど、「現在」が惨めに映ることもある。
「未来」という光が強すぎて「現在」という影が色濃くなる。
そうなった時、人は学び続ける足を止めてしまうのではないか?
そんな疑問が生まれる。
この時点で「目的をもつ=学び続けられる」という方程式は崩れ去ることとなる。
こんなことを考えているとそもそも「目的」というものが存在するのか?
という問いすら生まれてくる。




ニーチェは述べる。
「この世には目的も意味もない」と。
すべては無価値。その状態が永遠と回帰し続けているだけ。
ニーチェの言葉を見つめると、「目的」という言葉のあいまいさが浮かび上がってくる。



すべての意味、目的、価値が消し飛んだ状態。
それをニーチェは「大いなる正午」と呼ぶ。
太陽が頭の真上に来た時、すべての影が消えうせるように、すべての物事の価値が消し飛んだ状態だ。



目的や意味、価値という道標が消し飛んだ時、人は放心状態となる。
何をたよって進めばいいかわからなくなり途方に暮れるからだ。
しかし、そんな状態でも強く突き進む人。
それをニーチェは「超人」呼ぶ。
自らの内から湧き起こる「力への意志」に耳を傾け、それをよりどころに進んでいく。
それが「超人」だ。



価値なんかない。
意味なんかない。
目的なんかない。



そんな世界だからこそ、自己を肯定し、自分自身をより豊かにしたいという力への意志が大切。
価値のない世界に、自分自身で価値をうえその生を生きることが大切。





・・・ということは?
目的なんてないと理解しながらも
内からあふれる力への意志に耳を傾け、
自分自身の生を肯定する目的を据えることが大切ということか?




目的があれば学び続けられる。
このように単純なものではないようだ。



・・・。
とてつもなく深いものに足をつっこんだ気がする。
じっくり考えるとしよう。