「悟り」とは「鎖取り」

「悩み」の正体。
それは自分で生み出した「マイナスの思考」だ。
悩みは外からやってくるものではない。
悩みは中からわいてくるもの。




外からやってくるのは単なる「事実」に過ぎない。
それをどのように解釈し、どのような感情を用いて捉えていくか?
どんな「事実」も前向きに捉える眼をもっている人は悩みに縛られることなどないだろう。




どんな出来事に対しても、ただ起きたものとして客観的に見る。
物事の解釈は自分で自由に決めていい。
マイナスの感情に縛られる必要はない。
それに気づくことが「悟り」なのだと感じる。




「悟り」とは「鎖取り」
「苦しみ」「哀しみ」「怒り」「悩み」という自らを縛りつける鎖を断ち切ること。



しかし、それらの感情を心の中からなくすことが、断ち切ることではない。
なくそう、なくそうとすればするほど、それらは増大し、膨れ上がっていくものだ。
「苦しみ」「哀しみ」「怒り」「悩み」はコインの片面に過ぎない。
このマイナスの感情の中にいかに「幸せ」を見出すか。
それが大切になってくる。



もしこの世がすべて思い通りになり、誰に身にも「幸せ」しか存在していなかったらどうだろうか?



食べたいと思ったものがすぐに目の前に現れる。
行きたいと思った場所に一瞬で行ける。
会いたいと思った人にいつでも会える。
自分の好きなことだけして生きていてよい。



この日常が「当たり前」となった時、果たして人々は幸福を感じながら生き続けていけるだろうか?
答えは「NO」だろう。



この世に幸福しか存在していなかったら、幸福が当たり前になり、幸福とは何かが見えなくなっていくだろう。



このように考えていくと、「幸福」とは「苦しみ」「哀しみ」「怒り」「悩み」というマイナスな感情があるからこそ、感じられるものだと考えられる。



陥りがちな錯覚。
「幸せ」はよいもの。
「苦しみ」は悪いもの。という考え方。
「幸せ」と「苦しみ」は表裏一体。
片方だけでは存在することができないのだ。


表だけのコインが存在しないように。
喜びだけの人生も存在しない。



喜びがあるからこそ、苦しみを感じ、苦しみがあるからこそ、喜びを感じるのだ。
「喜び」と「苦しみ」はコインの裏表。
「喜び」も「苦しみ」も同時に存在している。
それに気づくことが「悟り」への一歩なのだろう。




「悟り」とは「鎖取り」
「苦しみ」「哀しみ」「怒り」「悩み」という自らを縛りつける鎖を断ち切る。
先ほどこう述べたが、この「断ち切る」という本当の意味。
それは、「苦しみ」から目を逸らし、排除しようとすることではない。



「苦しみ」と「喜び」の融合である。
それぞれが形を変えた1つのものであるという認識をもてた時、鎖はほどけ始める。



「私たちは幸せになるために生まれてきた。」
よく聞く言葉だ。
しかし、「幸せ」と「苦しみ」が表裏一体のものとわかると、このように言い換えることも可能になってくる。




「私たちは苦しむために生まれてきた」と。




このように考えると釈迦が悟った「人生は苦である」ということの意味も見えてくる。
「苦楽」を表裏一体のものとして見据え、いかにしなやかに生きるか?
それができるようになれば心の鎖はしだいに消えていくのだろう。