繋がりを断つ言葉

結局は人の心のなのだ。
以前からぼんやりと考えていたことですが、最近強くそう思います。


「やるのがあたりまえ」
「やってもらってあたりまえ」



そのような関係に成り下がってしまったとき、「心」というものは少しずつ削がれていくのだと思います。



トラブルを減らすために、責任の所在を明らかにすることは大切でしょう。
しかし、責任の所在を明らかにすることで心をも削いではいないでしょうか?



「責任」という言葉は心を閉ざす言葉です。
責任というのは過去やその人の肩書きに向けて発せられる言葉。
その人の存在自体に語られる言葉ではないからです。



「誰も悪くない」というスタンスから始まる会話には愛がこもります。
心がほっと和らいだ時にこそ、よい知恵は生まれるもの。
そういう場面をいかに日常生活の中につくりだしていくか?
そこが大切なのだと思います。



「子育て」は「己育て」といわれます。
子どもたちと向き合うということは、多くの悩みに向き合うことです。
良い自分にも、悪い自分にも向き合うということです。
これは親であれ、教師であれ同じことです。



誰もが悩む。誰もが迷う。
その前提があるからこそ、繋がる必要性が生まれるのではないでしょうか。
しかし、「責任」という言葉はその前提をすべて崩壊させます。
「責任」という言葉は繋がりを断つ言葉。
「ここからはあなた、ここまではわたし」というように。



「誰も悪くない」
このスタンスで常に物事を見れる自分でありたいと思います。
「責任」
という言葉をふりかざす人から成長したい。
そんなことを最近ぼんやり考えています。