道はいつも開かれている

道はすべての人の前に開かれている。
そう思います
現在、悩んでいる人の前にも。
現在、つらくて立ち止まっている人の前にも。


開かれている道を見えなくしているもの。
それは「不安」「恐れ」「怒り」「焦り」です。
それが心にうずまいていると目の前の道が見えなくなるのです。



悩んでいる人、苦しんでいる人を救いたいと思うなら、答えはシンプルです。
「不安」「恐れ」「怒り」「焦り」を軽くしていけばよいのです。

人は本来力があります。
その力をはばんでいるものを取り去れば、開かれた道は自ずと見えてくるのでしょう。


安心してやすらげる中にこそ、解決の道筋は見えてきます。
道は常に開かれています。
あとはそれを感じながら、前に進むだけでしょう。



道は開かれている。
下の詩はそんなことを考えていてふと思い出した。
私の大好きな詩です。





「道はいつも開かれている。」  古谷綱武

道は、すべての人の前にひらかれている。
その人に、やる気があるかないかだけである。


道は、すべての人の前にひらかれている。
しかし、道が閉ざされていると思う人の前には道は閉ざされている。
自分はだめだと思う人はだめになっていく。


道は、すべての人の前にひらかれている。
しかし、自分が生きていくべき人生は、自分で発見していくよりほかにはないのである。


道は、すべての人の前にひらかれている。
しかし、生きがいとしあわせとをつかみあてるその鍵は、自分の心の姿勢のなかにだけしかない。


道は、すべての人の前にひらかれている。
しかし、個性のない人生は、真実の人生ではない。
たとえすぐれた人のまねをしても、まねをすることでつかみあてられる「自分の人生」というものは、この世にはないのである。


道は、すべての人の前にひらかれている。
しかし、人生を暗く生きようとする人には、明るい人生も暗くしか生きられない。
人生を明るく生きようとする人だけが、暗い人生さえも、明るく生きていくことができるのである。


道は、すべての人の前にひらかれている。
しかし、自分からあきらめてしまうことは、もはや生きることではない。その人の前では道も閉ざされる。


道は、すべての人の前にひらかれている。
しかし、人が一度でやりとげられることが、自分には一度でやりとげられないこともある。
一度でやりとげられないことは、十度やってみよう。十度やってもやりとげられないことは、百度やってみよう。


道は、すべての人の前にひらかれている。
しかし、やりとげるまでは、けっしてやめないこと。そして、やりとげようとする心をけっして失わないこと。


道は、すべての人の前にひらかれている。
しかし、見栄や虚栄心、にくしみやうらみ、欲の深さや身勝手な自分本位、
そうしたものに心をしばられていると、その心の束縛の不自由さによって、
その人は、自分から自分の道を閉ざしてしまうことがある。


道は、すべての人の前にひらかれている。
しかし、求める心があるならば、恥をかくことはけっしておそれまい。
軽薄な虚栄心などに心をしばられまい。
また、人をにくむことから得られるものはなにもないことも、よく知っていよう。
欲の深さは、かえって失うことが多いことも知っていよう。


道は、すべての人の前にひらかれている。
しかし、自分から自分の道を閉ざしてしまうような、そういう自分のなかのいっさいのものを、自分から捨て去っていくことが大切である。
それを捨て去ってしまったとき、ほんとうの自分が生まれてくる。道がひらけてくる。


道は、すべての人の前にひらかれている。
しかし、すぐに、かんたんに、わかった気持ちになってしまうのは、危険である。
一だけを考えて一がわかったと思うのは、ほんとうにわかったことではない。
百考えてやっと一がわかったというのが、ほんとうのわかったということである。


道は、すべての人の前にひらかれている。
しかし、いつも、やわらかい頭を持って、早く判断できる人でありたい。
一だけを考えて、けっしてあやまることなく、たちまち一の判断ができるのが、生活力とよんでもよいものである。
ただ、そうした早い判断が、いつもあやまりでなくできるのは、その人が百を考えぬいてきた蓄積を、その心のなかにもっているからなのである。


道は、すべての人の前にひらかれている。
しかし、よいことをたしかによいとわかり、
わるいことをたしかにわるいとわかることが大切である。
しかもそれは、ほんとうは、それほどやさしいことではないのである。
そのむずかしさこそをよくよく知った人でありたい。

道は、すべての人の前にひらかれている。
しかし、わるいことがたしかにわかるためには、よいことがたしかによいとわかる以上の、教養とセンスとが必要である。
そのことも、よく知っていたい。


道は、すべての人の前にひらかれている。
しかし、たえず、知ろう、学ぼう、考えよう、とする意欲を持たなければ、人はその自分の人生の道を歩き進む力を失うであろう。
知り、学び、考えていくことが、自分の人生の道を歩いて行くことだからである。


道は、すべての人の前にひらかれている。
しかし、人によっては、自分にとっての一番やさしい道しか、歩こうとしない人もいる。
だが、人によっては、自分を育て続けていくために、一番むずかしい道の方を、一生懸命歩み続けている人もいる。


道は、すべての人の前にひらかれている。
しかし、そこで、権利意識ばかりをむやみにふりまわして、まったく停滞した空虚のなかだけに身をおいている人もいる。
そうではあるがしかしまた、人間としての権利の意識を全く自覚していない人は、とかく、大切な責任の意識にも欠けている場合が少なくない。


道は、すべての人の前にひらかれている。
しかし、したいことだけして、しなければならないことは、なかなかやろうとしない人もいる。
しなければならないことこそを、まず行う人になりたいものである。


道は、すべての人の前にひらかれている。
しかし、この人生はまたその別の一方では、人にその道を見失わせるほどの誘惑と失望との繰り返しにも、みちみちていることを忘れてはならない。
道は平坦ではないのである。それだからこそ、人生という道の味わいは深いのである。


道は、すべての人の前にひらかれている。
しかし、世間に自分というものを誤りなくわかってもらおうなどという期待は、持たない方がよい。
そうした期待に生きたいのであったら、世間の因習に全面的に屈伏して生きるよりほかにはないのである。
それは自分のない人間になることである。
わかってもらえようともらえまいと、そんなことは問題にしないで、あくまでも自分の真実こそ生きつらぬいていこうとするとき、世間というものは、案外、思いがけなく、
かえって自分を理解してくれるものなのである。