「正しい」「正しくない」を超えて

「正しい」「正しくない」
これを論じることはほぼ無意味だと思う。
その人自身のものの見方、考え方、取り巻く環境によって「正しい」か「正しくない」かは変わってくるからだ。



しかし、多くの人は(もちろん自分も含めてである)「正しい」「正しくない」をたやすく線引きしがちである。



人が誰かを否定する時、それをじっと観察する。
彼らが「正しい」「正しくない」を線引きする基準はどこなのか?


するとたいていの場合、人は
「好き」か「嫌い」かもしくは「理解できる」か「理解できない」かで線引きをしていることに気づく。



「好き」か「嫌い」か?
という議論がいつの間にか
「正しい」か「正しくない」か?
の議論にすり替わるのだ。



「理解できる」か「理解できない」か?
という議論がいつの間にか
「正しい」か「正しくない」か?
の議論にすり替わるのだ。



「正しい」ものなんてない。
あなたも正しい。
しかし、私も正しいのだ。


そんなことを考えるようになって(自分の未熟さに気づいて)から「自分は正しい」という言葉を使わなくなった。



「自分が正しい」
これは「周りは間違えている」ということの裏返しだから。



否定は否定を生む。
「正しい」か否かという議論は無意味なのだ。


「自分が正しい」
その言葉を言いたくなったら、ぐっとこらえて言葉を変えるようにしている。


「自分は貫きたい」という言葉に。


「正しい」ものなどない。
しかし、貫きたいことはある。
だから突き進むのだ。


「正しい」「正しくない」を超えてものごとを見られる自分へと成長していきたい。