「強制」は「自主性」をうむ

昔、中学校でサッカー部の顧問をしていた時のことです。
私には尊敬するサッカー部の先生がいました。その方は高校のサッカー部の監督で、県の中でも必ず上位にくいこむほどの力のある監督でした。サッカー経験などなかった自分はその方のもとに何度も通ってお話を聞いたものでした。


その方が話していたことで、自分の中でかなり印象に残っている言葉があります。
それは「強制は自主性を生む」という言葉です。


「強制」と「自主性」
私の中ではこれらは矛盾するものでした。だから頭の中に鮮烈に刻まれたのだと思います。
一流の指導者が語った「強制」の役割。幼かった私はなんの意味も知らずにその言葉を振り回しました。まるで「強制」することの免罪符を得たかのように。


この言葉の存在すら何年も忘れていました。しかし、最近ふとした瞬間にこの言葉が頭をよぎりました。そして、思いました。

「あぁ。あの言葉の本当の意味はこういうことだったのか…」と。


我々教師の役割。それは「強制」と「自主性」という一見矛盾しているものを融合させていくことなのです。
子ども達を縛りつけ、すべて自分の思うままに動かすと、子ども達の思考は止まります。もちろん自主性など生まれるわけはありません。
しかし、「すべて君達に任せるよ」といって教えることを手放してしまうことも危険です。
「好き勝手にやる」ことと「自主性」は質が異なるものなのです。


教師にしかできないこと。
それは「勉強しろ」と子ども達に言うことです。
確かにこの言葉は子ども達を縛りつける言葉に聞こえるかもしれません。しかし、「強制」の先に「自主性」を見ている教師が使うその言葉は非常に大切な意味をもつのです。

「お前はここが弱い。だからやってこい。」
「お前のここは伸びてきた。だからここまでやってみろ。」

先を見て、「やれ」と強制できる力があるのは教師だけなのです。
しかし、そこで気をつけなければならないことがあります。
それは、その「強制」を「自主性」に繋げる覚悟があるか?を常に自分に問うことです。

「初めは先生に強制されてやっていたんだ。でもやっていくうちにそれをやる意味が見えてきたんだよね。先生がなぜそれをやれっていっていたかがわかってきた。」

そんな言葉が子ども達の口からあふれ出てくる。その時まで子ども達の心にその価値観を刻む覚悟があるか?ということなのです。

「強制は自主性を生む」

「強制」を「強制」では終わらせない。
これを必ず「自主性」にまで繋げていくのだ。

この言葉はそのような覚悟のこもった言葉だったのです。
当時の私は勘違いしていました。「強制」すれば自然に「自主性」が生まれると。

一流の教師とはどのような教師なのでしょうか?
それが最近わかってきた気がします。

一流の教師とは「矛盾するものを融合させていく力のある教師」です。

「強制」と「自主性」。
これらを融合させていく教師でありたい。そんなことを感じました。