全力で学ぶから楽しくなる。

どうすれば子ども達が本気で学ぶのか?
こんな議論をよく耳にする。


そこで話題にあがること。
それは
「いかに子ども達に興味・関心を抱かせる課題(もの)を準備するか?」
「いかに子ども達の興味・関心を持続させられるような話術を磨くか?」
「いかに子ども達の学びを整理する板書を構築できるか?」…など



これらの議論を深めていくことは、教師としての腕を磨くためには大切なことである。
しかし、これらを目的にして、歩んでいく先に子ども達の力はつくのだろうか?



これらの問いに正対することで確かに教師の腕はあがる。
しかし、我々が育てるべきなのは、子ども達だろう。
我々教師が一番こだわるべきことは子ども達の力がついたか?否か?
そこだろう。



「いかに子ども達に興味・関心を抱かせる(課題)ものを準備するか?」
これはつまり、
「子ども達は興味・関心をもてる課題を用意されないと学べない。」という考えの表れ。



「いかに子ども達の興味・関心を持続させられるような話術を磨くか?」
これはつまり、
「子ども達は、教師がエピソードを語る力や興味を引くような話術がなければ学べない」という考えの表れ。



「いかに子ども達の学びを整理する板書を構築できるか?」
これはつまり、
「教師が子ども達の学びを板書で構造化してあげないと、学びを形として認識できない」という考えの表れ。




こっちがすべてお膳立てしなくても、子ども達は自ら学び取る力をもっている。


楽しい教材だから子ども達が本気で学ぶのではない。
全力で学ぶからこそ教材が楽しくなるのだ。
教師に求められる力は、子ども達に全力で学ぶ感覚を刻むことだ。




「いかに問いに出会わせるか?」ではない。
「出会った問いに教師がいかに魂を吹き込むか?」だ。
教師に求められる力は、興味をそそられる「ごちそう」課題を準備してあげることでなはない。目の前にあるありふれた問いをいかに「ごちそう」へと変えていくかだ。



教師としての腕を磨くことは大切。
しかし、教師が磨いたもの(準備をする力・エピソードを語る力・まとめとる力)が子ども達に伝わっていかなければなんら意味はない。



子ども達自身が準備(予習)をする感覚が身についているか?
子ども達自身が自らエピソードを語り始める場面にあふれているか?
子ども達が自らの学びを形にする感覚をつかめているか?



教師が行っていることが子ども達の成長へと繋がっているか?
これを常に問い続けられる教師でありたい。