型の融合

学びのサポーターの先生との何気ない会話。その会話から多くのことを学ばされることが多い。先日は、「型」を示すことの重要さ。そしてその危険性についての話題となった。
今、自分のクラスでは説明文や読書感想文、レポート作成で「型」を示し、それを日々授業で磨いている。それをふまえての話題だ。

学びのサポーターの先生の言葉。
「型を示すのはとっても大切なことだよね。作文の流れにしても、一時間の流れにしても。
先生の授業は必ず最後に書くことをいれているよね。それは子ども達が見通しをもつという上でとっても大切なことだよね。だからここまで子ども達が主体的に学ぶことができる。でも一方、『書けばいいんだ』『まとめればいいんだ』となってしまってはもったいないよね。型にはめるというのは一長一短があるね。」

このサポーターの先生は校長先生を退職された方だ。授業の酸いも甘いもかみわけている。
さすがだな。と感じた。
自分がこの実践を通して常に気をつけなければならないと思っていること。それは
「書くことが目的となってはいけない。」
ということだ。先日も坂内先生とその話題となった。

「書く」ことは手段でしかない。書くことによっていかに思考を活性化させるか?
教師がいかに「書く」ことの先を見ることができているか?
それが非常に重要となってくる。

「型」を示すと子ども達は確かに書けるようになる。
しかし、子ども達の思考を型にはめて、それをゴールにしてしまうと深まりは生まれない。
そんなことを感じた。
ということで、今回は「型」をいかに活用して子ども達を磨いていくか?について少し書いてみたい。



どのような型を教師側が提示するのか?
それは子ども達の思考をみがいていくために重要な課題となる。
フレームを大きくすればダイナミックな学びが生まれる。
しかし、ダイナミックになる一方、ほったらかしの学びにもなりやすい。フレームを大きくするのならば教師の授業を看る眼が必要不可欠となる。


フレームを小さくすればより深く、ピンポイントに課題にせまっていくことが可能となる。しかし、浅いレベルだけを求めると、すぐに課題が解決され(た気になっ)てしまう。
教師がどのように問いかけ、子ども達の思考を深めていくか?ここでも教師の教材研究のの力が試されてくる。


はじめは小さなフレームで学びを深めていくことが大切。
様々な形の小さなフレームを繰り返し繰り返し学び、何度も何度も形を変えて問い続ける。そのような日々を積み重ねていくとある日突然子ども達にブレイクスルーが訪れる。


今まで積み重ねてきた「型」が融合されていくのだ。
「先生。前に勉強したあの型をここにいれてみてもいいですか?」
と聞いてくる時もある。
質問などをせずに文章に様々な型の融合が突然現れる時もある。
子ども達の中から文字や言葉となって現れてきた時。
その時子ども達の中では型が融合され始めている。
今までの学びが繋がり始めた時。
その時、その瞬間を教師は見逃してはならない。


「型」を教える。「型」で教える。
それによって子ども達の学びへのハードルが下がる。
子ども達が見通しをもって学ぶことができるようになる。


しかし、一方で「型」による指導の短所もある。
見通しがつきやすくなることによって、マンネリが生まれる。
それに当てはめればよいという考えに陥ると思考は深まっていかないだろう。


我々教師が目指すべき所。それは「型」によって書けるようになる子ども達を育てることではない。それは通過点にしか過ぎない。「型」は手段でしかないのだ。
「型」の融合。これを目指したい。
「型」を打ち破るために「型」を徹底的に磨く。

はじめはバラバラ知識でしかない。
しかし、それがある日繋がり始める。
「もっといいものを書かせたい」「こんな風に書いてほしい」より高みを目指す教師であればそのような願いが生まれてくるのは当然である。
しかし、教師が力づくで無理矢理融合させても無意味なのだ。
教師に出来ることは一つの一つの型を徹底的に磨くこと。
そして、繋げることの大切さ、難しさを日々語り続けること。


型を融合させようと試みる子ども達を看取り、背中を押すこと。
それだけだ。
じっと看る。
じっと待つ。
ひたすら磨く。
それができるか?