なぜ「書く」のか?

「書く」という活動は子ども達に敬遠されることが多い。
そのためになんとか書くことに対する敷居を下げて、書くことに親しませようという取り組みが多く見られる。
「嫌なもの=敷居を下げなければ書けない」という構図を取り払うことができれば子ども達の力は飛躍的に伸びていく。
「書く=嫌なもの」この構図をつくりあげているのは教師自身なのかもしれない。


思考は「書く」ことによって磨かれる。
話す、聴く、読む、書くの中で唯一証拠が残り、自分の思考を辿ることができるもの。
それが「書く」こと。
思考を磨くことに必要な「書く」という行為。
これを「嫌なもの」と捉えることなく、「書くのが当たり前」と捉える子ども達を育てられるか?そこが出発点。


「書く」という行為を日常化すること。それが子ども達の思考を磨くためには欠かせない。「書く」ことが日常化することで、子ども達が自身の思考を読めるようになってくる。
自分が真の理解に達しているか?
自分に足りない力は何か?
自分の武器は何か? ・・・


すべて言語を通して気付きを得られる。
「書くことで思考を磨く」この感覚を掴ませるのに半年を費やした。
しかし、「書くこと=当たり前」となっている集団の学びは強い。
思考という見えないものが言語によって共有されるからだ。
すべての教科が「書く」という行為で繋がっている。
その土台が揺るぎないものだからこそすべての教科が融合し始める。


「書く」という行為を持続させるためには子ども達が互いに学び合い意見を交わすことが当たり前の教室が必要になってくる。
主体的な学びの上で「書く」ことは子ども達の学びを深いものにしていく。
しかし、主体的でない状態で「書く」というのは持続しない。

「書く」という行為を持続させるために必要なパーツ。
それは「子ども達が学び合う環境」だ。

すべては一つに繋がっている。
さて、それを一つ一つ繋げていく。
当分の課題はそこだ。