「なぜ?」「何?」ただそれだけ。

教科書は学びへの本質に斬り込むための入り口に過ぎない。
答えはすべて教科書に書いてあるのだから。


例えば理科。
先日台風の単元を学習した。


台風の進み方。
台風が接近すると天気がどう変わるか?
日本に接近する季節。


教科書で扱っている内容はこの程度のことである。
子ども達は今までの経験からこれらの問いに簡単に答えることができる。
教え込めば、この程度の内容なら1時間あれば十分だろう。


常に自分が考えていること。
それは
教科書「を」教えるのではない。
教科書「で」教えるのだということ。


そのため、学びをさらに深めていけないか、常にその切り口を探している。


教科書はよくできている。
それを読めば、なにを学べばよいか?何が大切かがおおかた見えてくる。


その教科書の内容をいかに深めていくか?
それが教師の役割なのだろう。


教科書に書いてある答えを自分の言葉に落とし込んでいく。
その中で生まれる疑問にまた「なぜ?」と斬り込む。
その繰り返しの中で学びは深まっていく。
「なぜ?」「何?」
この言葉は学びを深いものにしていく。




私は聞く。
「なぜ台風は夏と秋に日本に接近しやすいの?」

子ども達は自分でもってきた資料をめくりながら考える。そして目を輝かせる。
「先生。偏西風が関わっているって書いてある!」

そこで再び聞く。
「偏西風って何?」

子ども達は辞書を引っ張り出してくる。


違うグループにはこう問う。
「ねえ。どうして台風が近づくと雨や風が強くなるの?」

子ども達は首をひねる。
そして「低気圧」「雲のでき方」などについてさかんに議論し始める。

そこで再び斬り込む。
「どうして風って吹くの?」


そんなことをくり返していく。
それだけで子ども達の学びは深まっていく。
(深まっていく所まで育っている。)


特別な課題など用意していない。
教科書に入り口として明示されている内容に「なぜ?」と聞くだけである。
そこで思考停止することなく、貪欲に学ぶ文化が創られているか?


教科書は学びの入り口に過ぎない。
教師はもちろん、子ども達自身がそう感じているか?
そこを常に問い続けたい。



「先生。僕『台風』の単元すごく楽しい。」
授業終了後、一人の男の子がにこにこしながら私に話した。

楽しみながら、前へ前へ。
もっともっと深めていける。