授業は「共同創作」

授業とは教師と子ども達と共同で創られるものである。
「子ども達を信じて任せる」と口にしていても、この「共同創作」の意識は常に持ち続けていたい。そうすればどんな状況に陥ってもぶれることはない。



「授業は教師と子ども達と共同で創りあげるものである。」
誰が聞いても至極当然のことだろう。
しかし、その当たり前のことを体現するには数多くの試行錯誤が必要になってくる。



「共同で創りあげる」ことの大切さを理解していながらもなかなか手放せない教師が多いのではないか。もちろん自分も含めてである。
子ども達に筆を渡すことなくで教師が作品を1人で描き続ける。
そんな授業になってはいないか?それを日々省みる。


授業は「共同創作」である。しかし、教師はついつい筆を握りしめてしまう。
どこからどこまでを教師が握るか、どこからどこまでを子ども達に握らせるか。その「感覚」の部分に教師は悩む。
筆を握り締める教師の授業は冷たく苦しい。
筆を放り投げる教師の授業はばらばらで己の成長を感じられない。



どこまでが教師でどこまでが子どもか。
これは体で掴むしかない。
覚悟を決めて一度子ども達に任せ、子ども達の良い動きも悪い動きも徹底的に看ること。その授業がたとえ失敗したとしても、その経験が教師を大きく成長させる。


「子ども達に任せる」ということは怖いことである。
しかし、それこそが「削ぎ落と」すこと。
自分(教師)という存在を削ぎ落として授業を看たものは、自分の活かし方が必ず見えるようになる。



「削ぎ落としていいもの」と「削ぎ落としてはいけないもの」これが見えてきたときに「共同制作」の意味が見えてくる。
削ぎ落としてはいけないものは教師が握り、削ぎ落としていいものは子ども達自身にダイナミックに任せてみる。
「削ぎ落としてはいけないもの」とは何か?
これは1人1人が異なるものなのだろう。
自分の中で取捨選択をしながら、一つ一つ見つけていくしかない。
自分もここ数年の試行錯誤で一つ一つ見つけてきた。


それは
「目的を語ること」
「信じ抜くこと」
「安心させること」
「どんなことも楽しめること」



これから先、この中のどれかが削ぎ落とされるかもしれない。
または何かが加わるかもしれない。
そうやって一つ一つ見つけていこうと思う。
「共同創作」の考え方が根本にある限り、この考え方はぶれることはないだろう。