「まし」は手段

様々な価値観。考え方。
それらを自分の中に少しずつ取り入れていこうと日々考えている。
しかし、様々なものを取り入れたとしても自分の中で決してぶれたくない軸がある。



先日、協同学習の研究会に行った時のこと。
授業者の先生がこんなことをおっしゃっていた。




「学習からもれている子は従来の一斉授業では45分間何も思考することなく時間を過ごしてしまうことが多かった。しかし協同学習を取り入れることによって、周りのメンバーに支えられながら、すこしでも授業に関わる時間が生まれる。」




協同学習によって今まで学びからあぶれていた子どもの学習時間を確保する。
これは確かに大切なことだろう。
45分間思考停止しているより、学習に少しでも参加できる時間があったほうがいいに決まっている。
その話し合いの中から自分の価値を見出し、学びへの歩みを進め始める子もいるかもしれない。



しかし、自分は考える。
協同学習を展開するならば、学習に参加する時間を保障することよりもさらにさらに遠く、深いものを見据えていなければならないのではないだろうか。と。



45分のうちに数分でも授業に関わることができたから従来より「まし」でしょ?という考え方では子ども達の力を本当に伸ばすことはできないのではないか?



自分が常に心の軸としてもっているもの。
それは「まし」というレベルではなく、さらにさらに深いもの。


チャレンジを始めたばかりのころは「数分でも話し合いに参加できた。」という成長を喜ぶことも必要であろう。
しかし、教師自身が「数分の関われる時間」をゴールにしては子ども達を伸ばしきることはできないのではないか。


得意な子も苦手な子も45分間フルパワーで学び続ける。
そんな時間を毎時間積み重ねていける授業。それが自分が目指している場所。


いきなり自分の思い描く場所に辿り着くことはできない。
うまくいかない日々もあるだろう。
その時自分の気持ちを明るく、前向きにするために「まし」という言葉を用いることは大切だろう。
さらに高い所を目指しているものが使う「まし」には価値がある。
歩み続けるために大切な言葉。



しかし、その「まし」という言葉に支配されたくないと常に考えている。
「ましだからチャレンジを続けよう」という思考と「ましだからこのままでいい」という思考はまるきり質の異なるものだろう。
「まし」は歩み続けるための手段であり、目的ではない。



どんな子どもも45分間フルパワーで学び続ける。
そんな教室を目指すために日々「まし」という階段を積み上げていく。
しかし「まし」のレベルで満足したくはない。
そんなことを考えさせられた。