「全員」は大切。しかし劇薬でもある。

前にも書いたと思うけれども、Mくんのおかげでいろいろと考える所があったので再考。




自分の軸。
この授業は毎日、毎時間成立させられる授業か?
毎日継続できない授業は求めたくない。



【前回の記事】
http://manabitudukeru.g.hatena.ne.jp/furu-t/20120730




先日の子どもの姿を語る会で横藤校長先生がおっしゃっていたことが、最近自分の心にしみている。
それは「味噌汁・御飯授業」という言葉。
これは野中信行氏の言葉らしい。



授業研では「年に一度のご馳走」でなく、毎日の「味噌汁・ご飯」をしっかり出せということである。
打ち上げ花火のような授業をして、その後は継続できないというのが多いという話である。日常の授業を、それなりに充実させる。
70点の授業でよい。
それを、毎日続けられるか。
その方が、すごいご馳走を出すよりも大切だということ。



この考え方は自分の中にストンと落ちた。自分も常にそれを考えていたからだ。
どんなにすばらしい授業を行ったとしても継続できない授業の価値は薄い。




そんな考え方から自分の軸は「学び合う」から「学び続ける」にシフトチェンジしたのだ。この軸がしっかりしたからこそ「削ぎ落とす」ということの意味が見えてきた。




このような考え方から『学び合い』の授業を考えていくと、どうしても腑に落ちないことがある。それは「全員できる」という言葉を使い続けることが可能か?ということだ。



勘違いしてほしくないのは「全員」という言葉を使うことがだめだ。という意味ではないということ。
もちろん「全員」という言葉を子ども達の心に刻む価値も十分にわかっている。「全員」を求めることによって教師の信念を伝えていく大切さはわかる。横のつながりをもたなかった子ども達にとって「全員達成」という横の価値観を掘り起こしていくことは非常に大切なことだ。



初期段階において「全員」という新たな価値を生み出していくことは重要。
しかし、その「全員」という言葉をを自分が担任でいる間使い続けることが可能なのか?ということを考える。



「全員」という言葉は確かに大切である。しかし、この言葉は徐々に体を蝕んでいく「劇薬」でもあるのではないだろうか?



授業に連戦連勝はない。自分はすべての教科で学び合い学習を進めている。その中ですべての時間「全員」を達成することが本当にできるのか?もちろん答えは「NO」だろう。



「全員達成」で押し続けるとどうなるか。考えられるパターンは2パターンあるだろう。
1つ目は課題の質を下げて「全員達成」を喜ぶパターン。
2つ目は課題の質を下げずに続けることで子どもと教師の関係が崩れていくパターン。



2つ目のパターンの崩れ方には2つある。「爆発型」と「腐り型」である。
爆発型はわかりやすい。
常に教えることを求められる上位の子ども達が「フルパワーで学びたい!」と爆発する。上位の子ども達が崩れたらクラスはとたんに崩れ始める。
上位と下位の子ども達をむりやり結び付け続けるとその怒りは爆発していく。



「腐り型」とは教師の腹を見透かすパターンである。
「全員達成」と口で言っていてもどうしてもブレが出る。
教師の得意な教科と苦手な教科でニュアンスが変わってくる。
その変化を子ども達が感じ取って、「全員」なんて口先だよね。と見透かされ、静かに腐っていくパターン。



「全員達成」という言葉の価値はわかっている。
しかし、自分がそれをあまり使いたくないのはその言葉は使い続けられない言葉だと考えるからだ。



そんな迷いの中から生まれた「全員」に変わる言葉。それが「学び続ける」である。



たとえ今できなかったとしてもそれでいい。
しかし、できるようになるために何度も何度も挑戦する自分であるか?「学び続ける姿勢」にこそ価値があるのではないか。



「全員達成できているか?」
ではなく
「学び続けられる自分自身であるか?」と子ども達に問う。
この言葉はいついかなる状況でも貫ける言葉だろう。



味噌汁・御飯授業の真髄は「続けられるか否か」だろう。
毎日出せないご馳走のような授業ではあるな。
毎日出し続けることができ、なおかつ体を健康にする味噌汁御飯のような授業であれ。




毎日使う言葉も同じだろう。
使い続けることによって疲れ果てていく言葉は使いたくない。
卒業して自分のもとから離れても常に子ども達が反芻できるような言葉。
そんな言葉を使い続けたい。