削ぎ落とした自分であり続けられるか?

坂内(tontan)先生の記事より


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一方ある程度の経験を積んだ教師はこのテクニックを一旦全て捨て去ることをお勧めします。これはものすごく「怖い」ことです。だってそれはまるで人前でパンツまで脱いで裸になるようなものだからです(笑) しかし、余分な脂肪をそぎ落とすように、一旦無駄なものを全て捨て去ることで、テクニックとは何かを見いだすことができます。私も結構つらい取り組みでしたがfuruさんと一緒に一つ一つ脱ぎ去ることで、自分の教師としての本質がよく見えるようになりました。おかげでどんなテクニックも自分のものとして取り込む自信ができました。
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「人前でパンツまで脱いで裸になるようなもの」
おもわず笑ってしまいましたが非常におもしろい例えだなぁ。と感じました。


でもその通りなのです。
削ぎ落とすことはめちゃくちゃ怖いこと。


「削ぎ落とす」ということは、「武装を解く」ということ。
四方八方どこからも刺される可能性を生むということなのです。




「削ぎ落とす」という感覚をもたない人の目に、削ぎ落とされた授業はどのよう
に映るのか?


「先生は何もしていない。」
「先生は放り投げている。」


きっと何もしていないように見えるのでしょう。
教師が何を見て、何を聞き、どれぐらいの長いスパンを見据えて授業をしているかを感じられないのです。
それはある意味当たり前のことです。
この感覚は削ぎ落とそうとした人にしかわからない感覚なのですから。
だから、刺されることになります。



「削ぎ落とす」ということは「本当に必要なことしかしない」ということ。
しかし「本当に必要なこと」が絞り込めていない。
「あれが足りない」「これも足りない」「あれも必要」「これも必要」…
その声を受け止めながらも、削ぎ落とした自分で在り続けられるか?





「削ぎ落とす」のは恐ろしいこと。
なぜならば、言い訳が許されないから。



「子ども達のため」と唱えながら、自らを武装している人がいます。



工夫されたワークシート。黒板掲示。指導案。懸命にまくしたてる説明…。
それらは言い訳に使えます。
「一生懸命準備した」「一生懸命伝えた」と。
それらの武装をすべて解き、素っ裸になるのです。
それは怖いに決まっています。



その怖さを乗り越えられるか?
それが一つの壁なのでしょう。


「削ぎ落とす」感覚は一人では磨き続けれません。
削ぎ落とす感覚を持っている人と日常的に意見交換をすること。
それが大切。


日々しなやかに、楽しみながら。
削ぎ落とした自分で在り続ける。
これだけで十分価値があることでしょう。