「発達段階」なんて見抜けるわけがない

「発達段階」は確かに存在する。
しかし、全員に共通する「発達段階」など存在しない。
もし万人に共通する線引きを設けられるならば我々人間はロボットだろう。




「発達段階に応じた指導を…」
「〇年生にはまだそれは早いのでは…」




そんな人に逆に聞きたい。



「では何歳になったらその教育は可能なのですか?」
「可能と判断できる根拠はなんですか?」



きっと誰も答えられないだろう。
しかし多くの教師この「発達段階」という言葉を言い訳に使う。
「発達段階」という名のもとに課題を簡単に設定する。



まだ幼稚園児だから…。
まだ低学年だから…。
まだ中学年だから…。
まだ小学生だから…。
まだ中学生だから…。
まだ高校生だから…。
まだ未成年だから…。
まだ新卒だから…。
まだ〇年目だから…。



「発達段階」を言い訳に負の連鎖はどこまでも続いていく。



「できない理由」を探すな。「できる可能性」を探れ。
「発達段階」という言葉は決して振りかざさない。
相手が子どもであっても、大人であっても語ることは変わらない。
どんなに難しいことでも本気で語る。何度も語る。


小学生には難しい。
そんなことは当たり前。
この議論はやらない理由を探しているだけ。
確かに難しいことかもしれない。



しかし、だからやらないのか?
ではいつやるのか?
あなた方のいう「発達段階」がそれを学ぶに値した時に、それを本気で語ってくれる教師が目の前にいる保証はあるのか?



「発達段階」という言葉を理由に教師が目の前の子ども達の力に線引きをしている。
〇年生ではこのぐらいでいい。
その「線引き」に押さえ込まれているうちは真の学びなど生まれない。



議論する際「発達段階に応じた…」という言葉は使うべきではない。
それが大切だということは「当たり前」のこと。
しかし誰もその「当たり前」を見取ることができない。
使いこなせない剣を振り回しても子ども達の成長には繋がらない。



「発達段階」の線引きはできない。
しかし、目的地(最上)は決してぶれることはない。
子ども達の人生を見通し「ここまで伸びてほしい」という所のみを語りぬく。

「まだ〇歳なのに…」
「まだ子どもなのに…」
はたから見ればひどく滑稽なことに見えるのかもしれない。


しかし、自分と別れた後の人生にまで想いをはせずに、子ども達の何を育てるというのだ。


我々の仕事は子ども達の心に「刻む」こと。