「一人も」って誰よ?

『学び合い』を実践している教師が使う「一人も見捨てない」という言葉。
この言葉の意味をもっと深く考えていく必要がある。
「一人も」という言葉が「学力低位」の子どもだけを指していると勘違いしてはいないか?


「一人も」というのは「誰もが」という意味のはずだ。
しかし、『学び合い』が語る「一人も」は「学力低位」の子であることが多い。
『学び合い』を方法として取り入れることで新たに生まれる「一人も」見捨てない。という意識が我々にあるか?


現在の『学び合い』の弱点。
それは上位の子ども達が「最上」を目指して走り続けられないことだろう。
「一人も」という言葉によって「教え合う」ことを強いられる教室ではまさに上位の子ども達が「見捨て」られてしまう。
その矛盾に気づけているか?教師は考えなければならない。


「一人も」=「誰もが」だ。成績うんぬんは関係なく「誰もが」さらに高い所を目指して走り続ける必要がある。
勉強が得意な子も、少し苦手な子も、誰もが自分の目標を抱き、常に向き合い続けられているか?
「一人も見捨てない」と語っておきながら、上位の子どもを「見捨てて」いないか?



確かに「一人も見捨てない」ことは大切なことだと思う。
しかし、私は「一人も見捨てない」教室をつくりたいのではない。
「誰もが安心して学び続けられる」教室をつくりたい。のだ。
「一人も見捨てない」は手段でしかない。



「全員」という言葉できつく縛る。
するといわゆる「勉強が得意な子」が全力で課題に向かうことができなくなる。
これが「得意な子」が見捨てられた状態。



そこで「全員」という言葉をゆるくする。
するとたちまち「勉強が苦手な子」の足が止まる。
これが「苦手な子」が見捨てられた状態。


「全員」という言葉を使わねば得られない感覚もある。
しかし、それをずっと振りかざすことで失われていく感覚もある。
その矛盾に気づきながら『学び合い』を実践しているのか?そこを問いたい。
それがわかれば『学び合い』は楽だ。なんて口がさけても言えない。



「全員」という言葉を多用せずとも「全員」が意識されている。
そしてそれぞれが目標に向けて学び続けている。
誰もが開かれていて、わからないことがあったら誰にでも相談できる。
それが自分の求めているクラス。
これが「ゆるくつながって」いる状態。



「個」を成長させるために「集団」を育てていたはず。
しかしいつしか、「集団」を育てることが目的へとすりかわってしまう。
「集団」として学んでいればよい。
そのように心の中で自分を納得させ、「個」を見失っていないか?
「誰も」がより高い所を目指して学び続けているか?
常に問い正さねばならない。