「差」を感じ取る

「部分」ではなく、「全体」を見れる人がなぜ強いのか?
それは「理想の状態」「在るべき状態」と
「今の状態」との「差」を感じ取れるからだろう。



子どもが一般的にいう「悪いこと」をした時、
「部分」しか見ていない人は、「悪いことをした行為」を叱る。



「全体」を見ている人はその子の日常全てを見つめ、
良い時と現在の「差」を叱る。
同じ叱る行為でも質はまったく違う。



「お前ほどの人が〜」
「そんなのあなたじゃない〜」
「差」が感じ取れる人が叱る言葉。
どんなに語気を強くしても子ども達にまっすぐ響く。
悪いことをしてしまった自分ではなく、すべての自分をひっくるめて先生は見つめてくれている。子ども達がそう感じ取るから。



「差」が見つめられる人は強い。
「差」が見つめられるようになるには「差」を見つめる必要性を心から感じ取らねばならない。
「部分」しか見えなくて子ども達の顔を曇らせていく自分に気付く。
失敗の積み重ねのみが「差」を見つめる必要性を掘り起こしてくれる。
「差」を感じ取る。
これはすべての実践に通じる大切な考え方。
すべてのものの「部分」にとらわれることなく「全体」を見つめる。
そこに「差」を見出していける人は成長し続けられる人。



「自分の理想」と「自分の実践」の中にある「差」に目を向け続ける。
それでしか成長はできない。
「差」を見出だすためには「全体」を見据えなければならない。



「自分の理想」も「今の自分の実践」の「全体」が見えているか?
それをきちんと説明ができるか?



「部分」のみでは「差」は生まれない。
「自分の理想」を見つめ続け、それが固まって初めて「差」が生まれる。
苦しみながら、もがきながら「自分の実践」を磨き抜くことで「差」は生まれる。


「自分の理想」は何か?
自分が磨きぬいた実践は何か?
その実践の限界を感じることができたか?


それがスタートライン。
それがないのに『学び合い』という方法をとった所で、子ども達に力をつけることがはできないのだろう。

自戒をこめて。