どうして語らなければならないの?

『学び合い』を成立させるために無くてはならないもの。
それは「語り」だろう。
では、「どうして『学び合い』において「語り」が重要なのですか?」
そのように聞かれたらどう答えますか?
キッキョンさん(@tomkick65)とのやりとりで
その答えがおぼろげながら見えてきた。



『学び合い』を成立させるために必要なこと。
それは「目的」(ゴール)を見据えること。
「目的」とは一番奥にあるもの。
どんな入り口から入ろうとも、最終的にそこに辿り着く場所。それが「目的」。



例えば教育基本法に記されている教育の目的
「第一条
教育は、人格の完成を目指し、
平和で民主的な国家及び社会の形成者として
必要な資質を備えた心身ともに
健康な国民の育成を期して行われなければならない。」




「人格の完成」「平和」「民主的」「必要な資質」「心身」…
非常に抽象的な言葉が羅列されている。


以前の私はこんな言葉に見向きもしなかった。
抽象的すぎて、つかめない。
覚えろと言われたから覚える。その程度のものだった。



しかし、「一番奥にあ」らねばならない以上、「目的」が抽象的に表現されるのは当たり前のことだろう。
「抽象的」であるということは、「変幻自在」であるということ。
あいまいだからこそ、どんな状況であろうとも当てはめていける。



抽象的であれば、どんな状況にでも当てはめられる。
しかし、そこで一つ問題が出てくる。
それは


「抽象的であるがゆえに、その解釈が各々で異なってきてしまう」


ということである。
形のないものを形づくるのは個人。
同じものを目指していても、取る手法が異なってくるというのはこういうこと。



すなわち「目的」がそこにあったとしても、それをどのように受け取るかは各々違うということ。
自分が「目的」だと感じていたことが、よく考えると「目標」だったりすることはよくあること。
我々はそれを何度もくり返しながら「目的」へと近づいていくのだろう。




「どうして『学び合い』において語りが重要なのか?」という本題に戻る。
我々が日々向かい合う子ども達。
子ども達といっても十人十色。
様々な子ども達がいる。
ということは子ども達が抱く「目的」も様々。



「目標」が全然意識できていない子ども。
「目標」がとても低い子ども。
「目標」は意識できているが、それが行動になかなか落とし込めない子ども…。



我々大人でも「目的」を意識することは難しい。
まして子ども達ならなおさら。



学級は一人一人がバラバラの状態から始まる。
各々のもつ「目的」「目標」がバラバラ。
「目的」「目標」が見えているものもいれば、まったく見えていないものもいる。
常にそんな状態からのスタート。



バラバラの集団にまず教師がすべきこと。
それは「目的」を語ること。
「目的」という概念すらなかった所に、それを見据える文化を形成する。
そこがすべての始まり。
しかし「目的」は抽象的なもの。
始めに一度語っただけでその形のない「目的」を完璧に理解させることは不可能。
イメージはできても、それは「わかったつもり」でしかない。
「目的を見据える」という文化が形成されても、その捉え方は人それぞれ。
ある意味それは当たり前のこと。「目的」とは抽象的なものだから。



では、捉え方がバラバラのものをどのように方向づけていくか?
その時に欠かせないのが「語り」なのだろう。
「何度も語ることが大事」とよく言われる。
「語る」こと、それはすなわち「すり合わせていくこと」なのだろう。
子ども達の見ている「目的」と自分自身が見ている「目的」をすり合わせていく。
形のないものをすり合わせるのだからこれは簡単なことではない。
だから何度も何度もすり合わせる(語る)ことが必要になってくる。
「お互いが違うものを見ている」という前提があるからこそ
すり合わせ(語り)が必要になってくるのだろう。



「なぜ何度も何度も語ることが必要なのか?」
それは「目的」が抽象的だから。
形のない「目的」が共有できた時。
それが集団が「チーム」へと高まった時。

(チームって何よ?)http://manabiai.g.hatena.ne.jp/furu-t/20111114


学び合う子ども集団を形成すること。
集団が「チーム」になること。
語り続けること。


これらはすべて一つに繋がっている。