本質を見据える授業

「目的」は一番奥にあるもの。
常に一番奥にあるものを見つめる。
日常であろうと、授業であろうとその姿勢は変わらない。
…というか状況でそれが変わるわけがない。
ころころ変わるということは削ぎ落とせていない証拠だろう。


最近は自然に「目的」を意識しながら毎日を送れるようになりつつある。
常に「目的」を見据える。
この視点は自分自身の授業をも大きく変化させた。
枝葉末節にとらわれず、一番奥にある本質のみを求め続ける。
毎時間切り口を変えて本質に迫っていく。
一番奥にあるものを求め続ければ、枝葉末節など語らずとも子ども達は自然と体得していく。
足りない所を見抜き穴埋めするのが自分の役目。


例えば国語。
世の中にあふれるほとんどの授業は一歩一歩着実に読み解いていく授業だろう。


「全体の構成」
小見出し
「一のまとまりの分析」
「二のまとまりの分析」
「三の…」


一歩一歩着実に歩んでいき、最後の最後に「主題」などの一番奥にあるものを読み取る。
確かにこれが丁寧で親切な授業なのかもしれない。
しかし疑問に思う。
たった1、2時間で「主題」などを読み取れるものなのか?
一番奥にある筆者の思いとはそんな簡単に見抜けるものなのか?
それを1、2時間で簡潔させる。
これこそまさに「わかったつもり」「わからせたつもり」なのではないか?


手取り足取り、丁寧に読み解いていけば子ども達は主題を掴み取れる。
それは教師の幻想だろう。
一番奥にあるものなんてそんな簡単に見抜けない。
見抜けないからこそ何度も何度も視点を変えて切り込み続ける必要があるのではないか?


…ということで最近の国語の授業は単元の1時間目から「本質」に切り込む。
この作品の「主題」って何?
予習でそれをノートにまとめてきて、それをもとに意見を交換し、最後に初発の感想としてまとめさせる。
もちろん原稿用紙。
10分で400〜600字。その量がクラスの当たり前。
(原稿用紙の取り組みはこちら)
http://manabiai.g.hatena.ne.jp/furu-t/20110526



その初発の感想を見れば、次の時間にやるべきことは浮かび上がってくる。
一時間目にしてすでに完璧に読み取りきっている子もいれば、あやふやな読み取りしかできていない子もいる。
文章を見ればそれが一瞬で浮かび上がる。
読み取れている子どもの作文を次の時間の最初に提示し語る。
「この人達の考えは一時間目にしては深い。いいことが書いてある。この時間に繋がるべき人だろう。」と。


たった2時間で集団がトップのレベルまで引き上げられる。
集団がトップレベルの考えまで高まった。
実はそこがスタートライン。
そこからまだまだ深めていく。


毎回書かせる原稿用紙まとめ。
子ども達の作文には切り口の宝庫。
ニュアンスの異なる二つの主題を示し、自分の考えをもたせる。
論理のねじれを提示し、もう一度書かせる・・・などとやり方は無限大。


2学期は「森へ」(光村6年国語)学習した。
この考え方でひたすら本質を見続ける。
毎時間原稿用紙に綴る自分の考え。
この単元で子ども達のまとめは5000字を超えた。
まとめるたびに深く深くなっていく。
子ども達の顔つきが変わっていく。


はじめは浅い主題しか導き出せなかった子ども達。
「自然は大切にすべきだ」「すべてはつながっている」など。
当たり前の言葉に立ち止まって考えていく。
「自然って?」「すべてって?」
そして子ども達は気づきだす。
星野さんが見ている自然と自分の考える自然にズレがあることに。


星野さんのゴールはどこか?そんな言葉が飛び交う。
「自然の一部として死ぬことじゃない?」
「じゃあクマに襲われて亡くなったのは本望?」
「野生のクマじゃないからなぁ・・・」
「自然ってどこ?」
「日本とアラスカの自然の違いって?」
「う〜ん。」
深く深くなっていく。


8時間ぐらい話し合う。
疑問が解決したと思った瞬間に次々と生まれるなぞ。
それを話し合っていくうちに深まっていく。
迷いながらも最終的にまとめる。
文の中から迷っていることがわかる。
迷うということは深く考えている証拠。
それが成長。



ありふれていて、当たり前にある言葉に目を向ける。
答えの出ないことを考え抜く。
子ども達を成長させるのは、そのくり返しでしかないのではないか?
表面上なぞって「わかったつもり」になる授業から抜け出す。
常に一番奥にあるものを見据え、様々な切り口からそれを考えさせていく授業。常にそんな授業にする。