夢は語るな

「夢」と「志」は似ていて非なるもの。
「夢」の軸は自分。
「志」は「夢」に「公(おおやけ)」を足したもの。



「志」とは
自分が「夢」を叶えることによって周囲の人々(公)をどのように幸せにしていくのか?ということ。



「夢」をもつことは簡単。
しかし「志」を常にもち続けることは難しい。


「夢」に向かって突き進む。
そんな言葉をよく聞く。
しかし、「夢」は所詮「夢」に過ぎない。
自分のなりたい職業に就ける人間なんてこの世の中に一握りだろう。
「夢」を叶えることをゴールにしている人は、ほぼゴールに辿り着くことができない。



自分は「夢」をもつことをゴールにはしない。
「夢」ではなく「志」をゴールにする。
自分と共に「公(おおやけ)」をいかに幸せにしていくか。
そこが終着点ならばたとえ「夢」が叶わずともゴールに辿り着くことができるだろう。
「夢」はいつか破れるもの。
だからこそ自分は子ども達に「志」を語る。
「夢」を語る子ども達に
「君の力ならどんなものにもきっとなれると思うよ。」
そう語りかけ、自己肯定感を高めていく。
その「夢」を土台にしてその「夢」を「志」にまで高めていく。
それが親や教師の役割。



学校とは「夢」を考えるさせる所ではない。
「夢」を「志」まで磨きあげ、
それに向かって全力で駆け抜ける「感覚」をつかむところ。
ゴールを見据え、全力で駆け抜ける「感覚」を子ども達の心に刻む。



子ども達の胸に刻まれた「感覚」は決して消えない。
ふとした出来事。ふとした瞬間にその「感覚」はよみがえる。
そのスイッチが押されるのは何年後かわからない。
もしかしたら何十年後かもしれない。
しかし、刻み込まれたその「感覚」は必ず甦る。
それが子ども達を「信じる」ということ。



「夢」が叶う、叶わないなんて関係ない。
「夢」など変化するもの。そんなことは当たり前。
しかし「志」は決して変わらない。
どんな「夢」でも構わない。
どんな未来だろうと見据え続ければ「志」は叶う。



いかなる状況でも学び続け、未来を切り拓いていく子ども達を育てる。
そのために「志」のみを語り続ける。



自分はどこへ向かうのか?
自分は何のために生きるのか?
自分はどんな人間になりたいのか?
自分は世の中にどのように貢献していくのか?



子ども達のもつ可能性に深く深く切り込む。
そして子ども達自身が「志」を見据えそれに向かって走り続ける感覚を刻みこむ。
教師にできるのはただそれだけ。
小さな小さな「感覚」を刻み続けていく。
強く語り続けることで自分も走り抜けられる。
まさに「Docendo discimus」