「AさせたいならB」だけでは子どもは育たない

「AさせたいならBといえ」



これは教育に携わるものであれば誰もが知っていなければならない言葉であろう。



代表的なものに
「おへそをむけなさい」
「なべを洗う音がここまで届くように洗いなさい」
「体育館が壊れるくらいに歌いなさい」
などがある。
子ども達に何かをさせたい時に
ありのまま(A)に伝えるのでなく、しっかり伝わる形(B)で声かけをする。という考え。
この考え方はとても大切だ。



しかし、目的が「子どもを意のままにコントロールする」ことになってしまうと危険。
「AさせたいならB」この技術の本質。
それは「子ども達にイメージさせることで、子ども達に考え、判断する力をつけさせたい」という所。
その本質も見抜けず、ただ乱用しては無意味なのだ。



「AさせたいならB」の考え方は確かに大切。
しかし大切な「考え方」の部分が抜け落ちテクニックとして一人歩きしてはいないか?そこに危機感を覚える。



どんなにすばらしい「B」を導き出したとしても、教師が「子どもを操る」という低いゴールしか思い浮かべられなかったら言葉だけが上滑りしていく。
「AさせたいならB」は大切。
しかし、どんなに素晴らしい「B」を並べ立てても、子ども達には届かない。
魂のこもらない言葉は心の表面を滑り落ちていく。
子ども達の心を深く深く射抜くためには「AさせたいならB」と同時にやらねばならないことがある。




「AさせたいならB」よりも大切な事。
それは




「AさせたいならAの奥にあるものを語れ」




だろう。



「おへそをむけましょう」ではなく
「なぜ話を真剣に聞く必要があるのか?」を語る。
「なべのゴシゴシという音がここまで届くようにしましょう。」ではなく
「なぜ心をこめて洗う必要があるのか?」を語る。
「体育館が壊れるぐらいの声で歌いましょう」ではなく
「なぜ歌うのか?」を語る。



多くの若い教師はテクニックを求める。
自分も同じだった。
短期間で自分のスキルが上がったと思えるからだ。
しかし、それは錯覚。
テクニックを求めていっても「はりぼて」の自分自身が出来上がるだけ。
心が伴わない教師を子ども達は信じない。
急がば回れ」。
「Aの奥にあるものを語れ」るようになった時、「AさせたいならBといえ」の本当の意味が見えてくる。



「なぜきちんと話を聞かなければならないの?」
「なぜ本気で学ばなければならないの?」
「なぜ心をこめて歌わなければならないの?」
「なぜ元気に挨拶をしなければならないの?」
「なぜ協力しなければならないの?」…



これに真正面から向き合える教師になる。
「AさせたいならB」の言葉かけだけでは子どもは育たない。
「A」の奥にあるものを語り、子ども達の心にストンと落とす。
これが教師に求められる力。
まさに教師にしかできないことなのだ。