自分の都合で怒りをぶつける

大人が子どもを叱る。
「叱る」ことは教育に必要なこと。
しかし、叱る目的をはき違えるとかえって子どもの成長を阻害する。



なぜ子ども達を叱るのか?
そう問われれば誰もがこう答えるのではないだろうか?
「子ども達をよりよく育てるため」
「子ども達に善悪をしっかり教えるため」


しかし、本当にそうだろうか?
「子どもの成長を願っていつも叱っているか?」
我々は常に考えながら言葉を紡がなくてはならない。



子ども達は見抜く。
我々が本気で子ども達の成長を願い、叱りつけているのか?
それとも我々に不利益なことをしたから叱られているのか?
我々はうまく隠しているつもりかもしれない。
しかし、その思いは表情、言葉のニュアンスに表れる。



いつも無関心なのに、自分にとって不利益なことが起こったとたん、ものすごい剣幕で怒り出す人がいる。
この人は自分の怒りをただぶつけているだけ。
恥をかいたという感情を怒りで隠しているのだ。
他人の目を気にして怒っていることを子ども達は敏感に感じ取る。



子どもを叱る前に深呼吸して考える。
自分がこの子達を叱る目的は?
彼らにどのように成長をしてほしいのか?
彼らに何を伝えたいのか?
「怒り」「怖れ」が自分のゴールを下げていないか?
彼らに何を考えさせたいのか?…



感情が溢れ出てしまうこともある。
しかし、「子ども達を自立させる」というゴールはぶらさない。
そこさえぶれなければ子どもの成長を阻害させる叱りつけ方にはならない。
子ども達は冷静に見ている。
この人がどんな時怒るのかを。
怒る軸が「自分達の成長」にないと気づいた時、子ども達の心は固く閉ざされる。イ一度心で切られたらその人の言葉はもう入らない。



しかし、子ども達は純粋だ。
どんなに裏切られても我々を頼り、我々を信じ抜こうとする。
本気で信じられているからこそ、我々は真摯に子ども達に向き合わねばならない。
決して自分の都合で「怒り」をぶつけてはならない。
叱ることで子ども達の胸に何を刻むか?
常に我々はの在り方が問われている。