観察

子どもに限らず人は常に「人」観察している。
「この人はどんな人なのか?」
「この人はどこまで許してくれるのか?」
「この人何を考えているのか?」



おそらく子ども達はそれを意識してはいない。
無意識で「観察」している。
悪意などはひとかけらもない。
「観察」するのは人として当然のこと。
「この人はどんな人なのか?」
それを探るために子ども達は常に問いを投げかけてくる。
「この人はどこまで許してくれるのか?」
それを探るために子ども達は「許可」を求めてくる。
目の前の教師にとってどこまでが許容範囲で、どこまでが許容範囲外なのか?
それを知らず知らずのうちに見つけ出す。
「ここまではいい。しかし、ここからは先は絶対に許さない」
教師自身がその明確な線引きができていないと子ども達はそれを見抜く。
それを見抜いた時、子ども達は教師のつくりだした柵の外に出ようとする。


柵の網目を抜ける者もいるかもしれない。
柵を乗り越えようとする者もいるかもしゅれない。
時には柵自体を崩壊させようとする者もいる。
「ずるさ」や「力づく」で外に出ようとする子ども達は徹底的に柵の中に押し戻す。その強さが教師には必要となる。



教師は子ども達にとって「壁」でなければならない。
強くて固い「壁」であって始めて子ども達は育つ。
「強さ」と「固さ」で押し返すというがもちろん「力づく」で押し返してはいけない。
「力」に「力」で対抗しても効果はない。
所詮それは一時しのぎ。
教師は冷静に理路整然と悟し、自らの足で子ども達を柵の中に帰らせなければならない。




柵を破ろうとする子ども達は実はそれがいけないことだとわかってはいる。
自分の意見通らなくて泣き喚く子ども。
実は冷静さを欠いていると思われるその場面ですら、その子は冷静に状況を見ている。
泣き喚いている子が柵を破ろうと意識しているのか、そうではないかはすぐにわかる。冷静に聞いてみればよい。

「君は泣き喚けば自分の意見が通ると思っているんじゃないの?」
それが図星だった時は子どもは必ずサインを出す。
三歳になるうちの娘ですらそうだ。
「そうやって泣いていればお父さんが手伝ってくれると思っているんじゃない?」
すると今まで泣き喚いていた娘はパッと泣き止む。
見抜かれていることに気づいているのだ。
「壁」になるとはそういうこと。
誰もが 「人」を観察している。
ずるくもなんでもない。
それは当然のこと。
だからこそ自分を磨く。
動かない、ブレない自分にする。
それが子どもの前に立つ者としての役目。