「子どもが好き」では足りない

「あなたはなぜ教師という職についたのですか?」



そう聞かれたら皆どのように答えるのだろうか?



よく聞くのはこんな答え。
「子どもが好きだから」
確かに子どもが好きでなければこの職業は成り立たない。
しかしそれは大前提。当たり前のこと。
胸を張って答えることではない。



大切なのは「子どもが好き」という思いの奥にあるもの。
「子どもが好き」という動機で教師になるということは、
「子どもが嫌いになった時に教師ではなくなる」ということ。



ただ「子どもが好き」というだけで教師になるべきではない。
「子どもが好き」の奥にあるものを見ようとしない者は必ず子どもに甘くなる。
好きだからこそ叱れない。好きだからこそ踏み込めない。
好きだからこそ甘くなる。
安易に手を差し伸べることを優しさと勘違いする。
子ども達が自分を必要とし、常に頼られ、問題を取り除いてあげることが教師の役割だと勘違いする。
自分は必死に良い先生になろうとしているのかもしれない。
しかし、子ども達は頼ることを覚え、常に依存し、自分で判断できなくなる。
「子どもを好き」だけでは子ども達は育たない。





我々教師は「子どもが好き」を超えて
「子どもを育てるのが好き」でなければならない。





「子どもが好き」ではなく
「子どもを育てることが好き」ということを胸を張って言う。
それによって「育てる」という言葉の意味を見つめるようになってくる。


「子ども達を育てる」それは「子ども達を自立させていく」ということ。
子ども達を大人にし、自分の足で歩んでいく人間に成長させていくということ。
そのためにはどうすればいいのか?
常に自問自答し前へ進んでいくしかない。近道はない。


「子どもが好き」という教師は子どもを「子ども」にする。
時には「赤子」にまで退化させる。
「子どもを育てるのが好き」という教師は子どもを「大人」にする。



「子どもが好き」という教師は自己満足の中でしか生きられない。
自分は懸命にやっているという言葉に逃げる。
「優しさ」が「甘さ」になっていることに気づかない。



「子どもを育てるのが好き」という教師は決して軸がブレない。
子どもが成長しているか否か?それしかない。
「子どもが好き」その思いは教師に限らず多くの方がもつ感情だ。
教師にしかできないことを追い続けなければ教師の存在価値はないだろう。
我々は本気でそれを追い求め続けなければならない。
教師であり続けるために。