なぜ「学び続ける」なのか?

大震災、原発事故。
数多くの試練を経験した今年。
辛いことも多々あった。
しかし、そんな中だったからこそ得られた感覚も多い。



震災後、子ども達は自宅待機。
いつも当たり前のように存在していた自分の学級というものがぽっかりと消えた。
子ども達に常に言葉をかけられる。
それが当たり前だと思っていた自分。
しかし、それが当たり前ではないことに気付いた。



だからこそ強く願うようになった。

「今、この瞬間に自分がいなくなってもまっすぐに未来を見つめ、学び続ける子どもを育てなければならない」と。


教師が目の前にいて、ギュッと握りしめている時だけ懸命に学ぶ子どもではだめなのだ。
学校ではしっかり学習するというゴールではなく、
常になりたい自分を指し示して突き進むというゴールを
子ども達に刻んであげなければならない。
人は失くしてから大切なことに気づくもの。
震災に「当たり前の日常」というものを奪われて始めて気づいた。



そのためには
「みんなができる」から「学び続けられる」へと深めていかなければならない。



「できる」というのは誰も評価しようがないのだ。
昨日までできていた問題が今日になったらできなくなっているなんてよくあることだろう。
授業終了時には確かにできていたかもしれない。
しかし、人間は忘れるもの。
授業終了時には「みんなができた」という「点」の評価では十分とは言えない。
授業終了後に忘れることもある。


だから学び直して理解を確かなものにしていくという
「面」の評価にしていかねばならないだろう。




「みんなができる」っていうけれど「できる」って何よ?
どういう状態ができるっていうのよ?
どこまでできたら「できた」ことになるのよ?




なんて聞かれても、すらすら答えられますか?


その問いに対する私の答え。
それは「わからない」だ。


「学び合い」が批判されるのは「みんなができる」という言葉を浅く捉えるから。
その子その子によって「できる」の質は違うのに。
「わからない」し「説明ができない」。
だから私はこの言葉を使い続けられない。


しかし、「みんなが(で)(と)学び続けられる」ならば説明できる。


「間違ったっていいじゃない。挑戦し続ければ」
「忘れたっていいじゃない。また学び直せば」
「大切なのはゴールを見据え歩み続けることでしょ?」



「点」の評価を「面」の評価に変えていく
その考えにシフトチェンジできれば次の段階に進める。
そして今度は「学び続ける」という言葉が深みを増してくる。
どんな環境を整えれば「学び続け」られますか?