『学び合い』を崩壊させない

「学び合い」の誤解。

「それはわかる子がわからない子に教える学習」という認識。
子ども同士が話し合い、教え合っていれば「学び合い」。
そう考えていると「学び合い」は浅いものになる。
時には学級を崩すきっかけとなる。



「わかった人はわからない人の所へ教えにいきなさい」



この言葉かけはできた子どもの学びを止める。
教師が上位の子にまだわからない子の学習を押し付けたとたんに
「学び合い」は崩壊は近づく。


できた子が本当に理解できているのかを教師は徹底的に見とる。
そしてできていると感じたらどんどん先へ進ませてあげればいい。
しかし、この一言は忘れない。



「どんどん目指す場所へ進め。でも誰かに聞かれたら本気になって一緒に考えてあげような」


自分の目的を目指して、ひたすら進む。
でもチームの一員としての意識は決して忘れない。
これが「学び合い」持続モデルである「クラスがゆるく繋がり合った」状態なのだ。



「学び合い」の最終目標は「子どもの自立」であるはずだ。
決して「集団づくり」ではない。
子ども達を自立させるための手段として「学び合い」があるにすぎない。



「誰かわからない人いませんか〜」
こんな言葉を子ども達が言っている状態は好ましくない。
一見優しさのように思えるが、これは優しさではない。
その子が「自立に向けて学ぶ」というゴールを見失い、
「教え合う」という低いゴールになってしまっている。


クラスが「ゆるく繋がり合った状態」にする。
そのためにはまず教師が「全員が」を求め、
子ども達をギュッと繋げていくことは必要である。
この前提なしに「学び合い」は成立しない。「みんなが」は大切な言葉。


しかし、クラスが繋がり合う感覚をつかんだなら「みんなが」という言葉から離れていく必要がある。
目に見える絆を目に見えない絆に変えていく。
それは我々教師にとっては「バンジージャンプ」だろう。
しかし、それが「子どもを信じる」ということなのだ。


子ども達の繋がりをゆるくすればその糸は何度も切れる。
切れた時には必ずトラブルが起きる。
それを見取り、語りで糸を繋ぐのは教師なのだ。