宿題忘れました・・・。

「先生宿題やってません…。」
「先生。やったんだけど家に置いてきちゃいました…。」


教師なら誰もが経験する言葉。
「授業やるぞぉ!」と思った矢先のその言葉。
授業スタートから気持ちをくじかれる。
イラっとしてしまうこともしばしば。
こういう場合どうすればいいのか。ずっと悩んできた。


今までとってきた方法はこれ…。



【怒らない】
子どもは宿題をせずとも怒られないことを学んでしまう。
やってきた子どももそれを見て教師の腹を見抜く。


【叱る】【怒る】
授業のテンポがとたんにくずれる。
怒られている間宿題をきちんとやってきた子も待たされる。
忘れた子はもちろん、きちんとやってきた子も暗くなる。
叱責から始まるスタート。重いスタート。


【あとで指導】
結局忙しくなってあいまいになる。
指導したり、しなかったり。一貫性のない指導は子どもを腐らせる。



どれもうまくいかない。
ずっと悩んできた。
どうすればいい?どうすれば子ども達をよりよく育てられる?



そして最近気づいた。
宿題をやってこない子どもというのは「コンフォートゾーン」が低いということに。
脳が学ぶことから逃げているのだ。
こういう子ども達に必要なことは何か?



それは
「おれはできる」「私はやれる」という自己肯定感。



これの種をまかずにいくら怒っても、結局もとの自分に元通りなのだ。
逆を言えば、どんなことがあろうと宿題をきちんとやってくる子は
「コンフォートゾーン」が高いということ。
きちんとやることが当たり前。
そしてきちんとやる自分が「好き」であり「自分らしい」と思えている子。
そういう子はそのすばらしい自分に気づかせてあげるべき。
そして、そんな自分を誇ってほしい。
じゃあ冒頭のように宿題をやらない子にはどうする?



私は
「見せ」「気づかせ」「励まし」「戻す」
ことが大事だと思う。



宿題をやらなかった者、家に忘れた者。
みんなが学び合っている前へ呼び。その様子を見せる。
(ちなみに家に忘れたものもやっていないと見なす。所詮家に忘れるような学習しかできていないということ。絶対もっていかなくちゃ!と脳が思えていない証拠。)



【見せる】
前へ立たせ、見せる。
これは罰という意味合いではない。
やってきた子ども達の学ぶ様子を見せ、子どもを育てるという意味で立たせるのだ。
教師の中に「罰」という意味合いが少しでも入ったとたん
子どもの心は堅く閉ざされる。 そこは気をつけなければならない。


そして語る。
「やってきたみんなの表情を見てごらん。すごく真剣だろ。『はじめよう』って先生が言った瞬間、いい顔になるだろ。こういうのをスタートダッシュっていうんだ。素晴らしい顔つきをしている人がたくさんいる。いい学びをしている人の顔。ちょっと見ていなさいね。」


すると、宿題をやってきた子の動きも変わる。見られているからだ。
「いい学びをしよう」という顔つきになる。
宿題をやってきた子の自己肯定感もあがるのだ。
宿題をやってこない子のおかげで、
やってきた子も成長のチャンスを得られるのだ。



【気づかせる】【励ます】
そして5分ほど見せたあと、再び語る。
ただ見ているだけの5分とはとても長いもの。
子ども達に聞く。
「これで5分。5分って意外に長いだろ?」
うなずく子ども達。
「このたかが5分って思うかもしれない。でも5分あればなんでもできるって感じがしないかい?それに気づくって大事だよね。君達は力がある。気づいた所がスタートライン。いい顔になってきた。」
たびたび忘れた子の前へきて語り。そして離れる。



【戻す】
何度も何度も語りかけ、励まし、子ども達のコンフォートゾーンを高める。
15分ほど見せた時、子ども達の顔は変わる。
「これが15分。長いよね。この時間大事にしたいと思わないかい?」
「授業時間はこの15分が2回分も残っているよ。やってみるか?」
この時子どもが力強くうなずけるように声をかけたい。
もしうなずけないなら理由は2つ考えられる。



?子ども達の自己肯定感が高まりきれていない
?教師の言葉かけに「罰」という意味合いがこめられている
(知らず知らずのうちに)



こういう場合は根気強く語りかけていかねばならない。
きっと一日語りかけたくらいではコンフォートゾーンは高まらないだろう。
何日も何日も種をまき続ける必要がある子なのだ。



我々教師は宿題「で」育てなければならない。
宿題をしっかりやってきた子も、宿題を忘れてしまった子も。
どちらの子も育てたい。自信をもたせたい。



宿題を忘れてきた子がいた時が「チャンス 」と思えた時、
教師の仕事はもっともっと楽しくなる。



どんな場面も「チャンス」と捉えられる教師にならなければならない。
まだまだだ。