「ニセモノ」を直視する

アルジャーノンに花束を
めったにドラマを見ない自分だが、妻が隣で見ていたので、一緒に見ていた。
その中である人が涙ながらに語ったセリフ。
その言葉が胸をついた。

「そんな時、俺は所詮自分がニセモノだってことに気づく。ニセモノの俺じゃあお前たちに優しさの種をまいてやれねんだ」


この人の言葉に青年たちはじっと耳を傾けている。
この人は自分の中に渦巻くふがいなさ、弱さ、うそくそさすべてを認め、その上で自分を「ニセモノ」と捉えている。しかし、それを聴く青年たちの心にその言葉はまちがいなく届いている。

このワンシーンを見ていて、ふと思ったこと。
それは
「人は自分の弱さを認められた時にはじめて本物へと近づくことができる」のではないか?
ということ。


誰もが「本物」になろうともがく。
「まだまだ上だ」 「もっともっと先だ」 「こんなもんじゃない」と。
しかし、「本物」というものは所詮幻に過ぎない。
つかんだと思った瞬間にするりと自分の手から抜け落ちていく。


「本物」になろうとして、あがく、もがく、苦しんでいく。
どんなに偽っても、心では感じている。 自分のふがいなさを、弱さを、うそくささを。
ひたすら否定する。
「本物は違う。これは本物ではない」と。
しかし、ある日気づく。
「ああ。このふがいなさ、弱さ、うそくささから解放されない」


「あきらめ」というもの。
「明らかにみる」ことが出来た時、人は一歩先に進める。
自分は所詮「ニセモノ」。
もがきながら時を積み重ねた上で、自分の弱さを直視して放つ言葉には魂がこもる。

「本物」とは目指すものではない。
「本物」とは自分が気がつかないうちになっているものだ。
涙をかみしめながら自分が「ニセモノ」だと語った彼はまぎれもなく「本物」だった。
弱さを内包し、それでも前へ進もうとした時、人は本物へと近づいていく。

「どうなりたいか」ではなく「どうありたいか」
今現在の自分の積み重なりが、何かを形作っていく。
自分はまだ所詮「ニセモノ」 でも「ニセモノ」としてできることをやっていこうと思えた。
サナギが蝶へと自然に生まれ変わるように、本物も自然に生まれると信じて。