「学ぶ」ことは「まねぶ」こと

「先生、まねぶしてきてもいいですか?」
授業中子どもたちは、この言葉を当たり前のように言うようになった。
4月から伝え続けてきたこと。
「学ぶ」ことは「まねぶ」こと。
すべてはまねをすることから始まる。

一般的に「まねをする」という行為を子どもたちは悪のように感じている。
「◯◯くんがぼくのをまねをした!」
「これはぼくの考え、まねをされたくないから見〜せない。」
というように。
「まねをする」ことも「まねをされること」も「悪いこと」と感じていることが多い。

「学ぶこと」は「まねぶこと」
まねをすることが悪いことと考えていた子も、話していくうちにこの感覚がストンと落ちる。
そして自然にまねをし合いながら学ぶようになる。

まねをする。これは人間の本能なのではないか?
そんな風に感じる出来事があった。先日の運動会のことだ。
私は紅組の応援席に座っていた。高学年の騎馬戦を見ていた子どもたち。数人の子どもたちが友達と帽子をとりあい、先ほど見た騎馬戦のまねをしている。

私はスッと立って、今度は白組の応援席へ歩いていった。すると白組でも同じ光景が。
数人の子どもたちが楽しそうにぼうしを取り合っている。
離れている席で起こっている全く同じ行為。
見たものをそのまままねる。これは人間の本能というものなのだろう。

また先日こんなこともあった。
妻と他愛のない話をしていた時のこと。
妻が言った。「私、字を書くのがとっても苦手。筆ペンとかで字を書くのはあまり好きじゃない。」と。
すると1年生の娘が「習字って何?」と聞いてきたので、そばにあったiPadで習字の動画を開いた。

画面の中では、美しい字が次々と仕上がっていく。
「すご〜い。きれいな字だね。」
娘と妻は感心しながら見ている。
すると妻はがさごそと押し入れをさぐり、筆ペンをもってくる。
「見ていたらなんか書きたくなってきた」と。

書き始めた妻。するとそこには今までより数段うまい字が。
「あれっ?なんかいつもよりうまくなってる。」
「ちょっと動画を見ただけなのに」
人は本能でまねをする。「よいものにふれる」ということはそれだけで意味がある。

「まねをする」ということが人間の本能としてあるならば、教師にとって教育活動は非常にシンプルになる。 教師の役割は「いかに良いものを示し、そこから学(まね)ばせていくか」ということとのみに力を注げばよいからだ。

しかしこれはシンプルだが大きな葛藤も生み出す。
教師自身の「いかにあるか」という部分までもが子どもたちを育てる上で大きなファクターとなってしまうからだ。
どんな方法を試してもうまくいかない教師がいる一方で、どんな方法でも子どもをまとめあげられる教師がいるのはそういうことだろう。

乱れている学級の子どもたちは、いうことを聞いていないのではないのかもしれない。 もしかしたら、彼らは忠実に教師の心の在り方を「まね」しているのかもしれない。 子どもたちは教師の姿を映す鏡。苦しくても、そう思える教師にこそ伸びしろは生まれるのかもしれない。

子どもたちの前に立つことで、今日自分は子どもたちに何を与えることができるのか?
さて一日のスタート。今日もいい一日にしていこう。